スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【考察】 続・空の向こう、星の彼方

この記事は山田尚子監督作品の分析のようなものです
この記事は前回の記事の続きで、昨夜から本日朝未明にかけてツイートした内容(     他)を総括したものです
よって、まず前回の記事を読まれることを勧めます

■ まえがき

というわけで

でまあ、前回は、映画けいおん!における「宇宙と交信」の謎解きと、けいおん!→たまこま→たまこラにおける、「空」から「宇宙」へのテーマ、フォーカスの変化、それぞれの意味あいについてアプローチし

・山田監督が「宇宙」というフレーズに込めているものは改めて「未知の世界としての未来」なのだ
・もっと近い未来、そして自分たちが選ぶ未来としての、ひこうき雲の空
・「映画けいおん!」が「"空の向こう"の物語」なら、次に挑む「たまこラブストーリー」は「星の彼方」つまり「"宇宙"の物語」なのではないか? 山田監督は、"ラブストーリー"をそう位置づけたのではないか?

…という結論に至ったわけです
つまり、たまこラで描こうとしている「ラブストーリー(=恋愛)」というテーマを「宇宙」と位置づけている(=「恋愛」を「宇宙」になぞらえている)のではないか? という結論だったのですが…

果たして、昨夜放送された中二病でも恋がしたい!戀のEDもまた、山田監督の絵コンテ演出でしたが
でましたね。宇宙がw

中二戀はあくまで石原監督の作品なので、自分は短絡的に先の考察を今回の中二戀のEDに落としこんで考えることには抵抗があるのですが、しかしあの映像に込められている「宇宙」が「恋愛」のことであるなら、山田尚子という表現者の思想性としては、一貫性が見えてくる話ではあります
(つか、先の考察を踏まえると、「ラブコメ」である中二戀のEDで、山田監督の表現手法として「宇宙」が出てきたのは、予測できる範囲、蓋然であって驚きではないわけです…ええ、山田尚子のファンですからね!w)

というところから、改めて、空と宇宙についての考察を整理してみようというのが、本記事の主旨です

■ 山田監督の思索とアプローチの変遷

中二戀のEDの「宇宙」、またたまこラで再び恋愛に対して使われている「宇宙の入口に立っている感じ」での「宇宙」はおそらく「恋愛」を暗喩したもの、もしくは恋愛の世界を意味したものでしょう
しかし、「映画けいおん!」での、オカルト研や純が口にした「宇宙と交信」というフレーズにおける「宇宙」を、イコール「恋愛」とすることには無理があります
また「たまこま」のe11の件のシーンでの会話においても、史織たちは親友であるたまこの結婚話という青天の霹靂、突然の変化と未知の未来に動揺していた、その比喩として「宇宙の入口に立っている感じ」というセリフと「宇宙」が使われていたのであって、これもイコール「恋愛」とは言いがたいものがあります

これを時系列でみると、「けいおん!」の段階では、「宇宙」の暗喩するものは茫漠たる無辺の「遙かな未来とその可能性」であって、その中にはおそらく恋愛も含まれていたでしょ う。それが「たまこま」になると、「結婚」というより具体的な要因があり、「宇宙」が暗喩しているものはよりリアリティを増して、「異性と作る未来とその可能性」になっています。そ して「たまこラ」「中二戀」では、「宇宙」は「「恋愛」がもたらす未来とその可能性」という、極めて具体的なものになっているということです

つまり、「けいおん!」→「たまこま」→「たまこラ」「中二戀」という作品を通じて、山田監督の中で、「宇宙」が暗喩しているもの(なぞらえているもの)が「未来という未知の世界」から「未知の世界としての恋愛」という風に変遷があったと自分は考えています

当ブログと相互リンクしている「忘れられた庭の静かな片隅」エンドスさんが指摘されていますが、また一方でこれは、「けいおん!」→「たまこま」→「たまこラ」(「中二戀」)という流れにおいて、山田監督の視点とキャラクターへのアプローチが、客観性の強いモキュメンタリーである「けいおん!」から、共同体と個人の関係性をテーマにした「たまこま」、そしてラブストーリーをやると公言している「たまこラ」で個人の心、内面に踏み込んでいくという距離的変化があることと(当然に)対応しています

まとめると、作品作りのスタンス(キャラクターへのアプローチの距離)が遠く→近く(内面)へと変わってきたゆえに、「未知の世界」である「宇宙」の持つ意味合いが、「茫漠たる可能性」から「恋愛」に絞られていったということが言えると思います

…という総論をたてたところで、今一度、各作品における扱いを振り返ってみましょう

■ 「映画けいおん!」における「空」と「宇宙」と性愛

映画けいおん!のラストシーンの足元の長回しですが、あれは原作最終回のエピソードを持ってきているのは周知の通りです。ですがあの一連の会話の中で、山田監督が原作からあえて省いた唯のセリフがありました。そう、原作では「女子大生だよ、大人だよ!」と言っていたのに、映画では唯に「大人だよ」とは言わせなかったのです
自分はそれを、重要な山田監督のメッセージ性を感じる改変と捉えています。橋の向こうに行く唯たちはまだ大人になるわけではなくて、これは少女以上大人未満の成長であると、監督はそう位置づけていたのでしょう。つまり「けいおん!」における「宇宙」とは、「大人(の世界)」の暗喩という言い方もできるわけです

では、彼女たちが大人になるために何が欠落していたのか、何を描くべきだったのか
それはエコールを踏まえたEDの解釈記事で軽く言及しましたが、おそらく性、そして恋愛だろうと思います

「けいおん!」は恋愛、そして性というものの描写を正面から描くことは出来る限り避けてきたわけですが、しかし第一期のEDがそうだったように、山田監督の中では最初から性的なもの、エロチックなアプローチはありました
本編でも、s1e13での律の描写や、s2e17での梓のいかがわしい(笑)歌詞に盛り上がる場面、そして映画けいおん!の作中でも、蘭鋳の前で頬を赤らめるムギが描かれたり、417号室での梓の唯に対する反応もありましたし、EDでも、あのブライトンの浜辺のコスチュームには性的な香りがありました
カラーは希薄でしたが、やはりけいおんの中でも性や恋愛に関する描写、成長はほのめかされていたわけです

現在、俯瞰してみると、「けいおん!」においても、山田監督の中では、性や恋愛は女性が少女から大人となっていく過程の中で不可欠かつ不可避の要素として最初から位置づけられていたと解釈するのが妥当と自分は考えます

前回の記事で書いたように、「けいおん!」は唯たちに見える、手が届く、選び実現する事のできる近い未来に進んでいく話、いわば「空の物語」で、「宇宙」の話ではなかったわけですが、キャラクターの成長物語を描いていく上で、山田監督にとって「恋愛」がいずれ重要なテーマ、成長のファクターになるという手がかりは散りばめられていたのだろうと思います

■ 「たまこまーけっと」における「思い」と「宇宙」

繰り返しますが、この作品では状況の変化への動揺として、かんなの口から「宇宙の入口に立った感じ」という言葉が出てくるわけですが、ここで言う「宇宙」もやはり「けいおん!」と同じく、広義においては、広大な可能性を持った未来のことであり、「大人(の世界)」という言い換えができると思います。そしてそれは、「けいおん!」よりは恋愛に歩み寄っていました

ただ、本作ではひとつの重要な指摘がされなければなりません
「たまこま」において山田監督が最初に言っていたのは、「いろいろな思いを描きたい」ということでしたが、主人公のたまこについては、その「思い」を彼女と商店街という、彼女を育んだ共同体との関係性に収斂させていきました。つまり個人と共同体の関係性に物語が収束したわけですが、そこに至る過程において、彼女に訪れた王子との結婚話は、彼女と共同体の繋がりを破壊しかねないものとして描かれました

つまり、「恋愛」がもたらす世界は、「けいおん!」で描かれたような、自分たちが望んだ通りの世界とは必ずしも限らないという指摘がされねばならないわけです。これが「たまこラ」において主要なテーマのひとつになることは、ほぼ間違いないところでしょう
 
■ 「中二戀」EDにおける「宇宙」と「空」

現時点の山田監督の最新作ともいえる中二戀EDですが、これは「宇宙」が頻繁に登場します。ほとんどテーマと言ってもいいでしょう。この「宇宙」が「恋愛」を寓意しているのであれば、非常に重要な演出、描写があることを指摘しなければなりません

それは、六花たち4人のシルエットに宇宙が重ねられるカット、そして最後の荒野に立つ六花から、彼女のシルエットが宇宙になり、宇宙そのものと同一になるという演出です
これらからは、宇宙が単に未来や大人の比喩のみではなく、個人の中にある内的宇宙、つまり「心」の不可思議な動き、自由、変化、ワンダーといったものを表現していることがうかがえます。すると、この映像でいう宇宙は、未来の比喩であると同時に、自分でもわからない恋愛の心の動きだと言えるでしょう

ところで、中二恋第一期のEDにもあった、ただ広がる青空と、だだっ広い野に立つ六花たちのカットは、未来に向かう少女のイメージ像として「けいおん!」のNTYのEDとも通じるものが感じられました。これは自分の個人的な想像ですが、山田監督にとって、あの大空の元に少女たちが佇む寂寥感やワイルドさは、10代という時期の原風景なのかもしれない、と思わなくもありません

なんにせよ、その「荒涼たる空の場所」から、(恋する)六花が宇宙と同化していく、というあの演出は、これから発表される「たまこラ」や上記の考察を踏まえると、少女が恋を経て大人の世界に行く、という非常に象徴的な意味を持っているようにも思えます

■ 「宇宙」と「戀」から「たまこラ」をうかがう

「たまこラ」は、おそらく中二戀EDの「宇宙と同化する六花」というイメージを、山田監督の描写で具体的に描くものになるでしょう
「けいおん!」は彼女たちが彼女たちの未来を自分たちで選びとる、そういう物語でした。言い換えるなら、「彼女たちの「思い」が彼女たちの未来を拓き作る」という真っ直ぐなテーマの物語でしたが、「たまこま」では、たまこの結婚話は彼女と共同体の繋がりを断つかもしれず、あるいは彼女の世界を破壊するかもしれない、という示唆がされていました。だからおそらく先述の通り、「たまこラ」では、その問題―「思い」が必ずしも望み未来を作るとは限らないというリアリティを、正面から描くことを避けられないでしょう
それはチラシに書かれたイントロダクション等からもすでにうかえます

というわけで、「けいおん!」では遂に描かれなかった性や恋愛を通じたキャラクターの成長が、「たまこラ」で描かれることを期待しつつ、それがどのような表現になるのか、描写になるのか、楽しみにして待ちたいと思います
それはきっと、楽しいことばかりでもなく、辛いことばかりでもなく、ときめきばかりでもなく、不安ばかりでもない、そして確実に成長する、そういう物語になるだろうことを、今から確信していますw


スポンサーサイト

テーマ : たまこまーけっと
ジャンル : アニメ・コミック

【雑考】山田監督のカメラワーク・映像演出について

氷菓9話を見ました。絵コンテ、演出が山田尚子ということで何度も何度も見返したのですが、けいおんの映像と幾つかの共通点を見つけることができました
というわけで、今回は今まで手を出していなかった、山田尚子監督/けいおんのカメラワークと演出についての簡単な雑考です(過日twitterでつぶやいたことの再編集です)

けいおんの独特の映像作りについては、オフィシャルか専門的なライターがしっかりした考察をして欲しいと常々思っていながら、ほとんどそういうものを見たことがありません。自分は映像の専門家ではないし、そのための教育を受けたわけでもないので、以下はあくまで素人の感じた限りの話と予めお断りしておきます

端的に結論から言うと、フィクスの絵作りについて、山田監督にはかなりの拘りがあるらしいのがわかります。ちなみにフィクス(FIX)とはカメラ固定の状態の映像のことです。そして、フィクスへの傾倒はよく指摘されることでもあります
他にも、よく言われる広角レンズの使用や、カメラの高さを地面や机の上などの地平線に設定するローアングルの多用カーテンショットなど技術的な傾向の話も別にあるのですが、今回はフィクスでの絵作りの癖とその効果について絞って、雑考を書いてみます

自分が山田監督のフィクスの映像について、この記事で特に指摘する特徴は以下の4点です

1)キャラを左右隅に極端に寄せて空間を取る構図
2)平面的な構図をとりつつ会話ややりとりで動きや奥行きを見せる
3)重なるように複数の被写体を枠の中に入れてフォーカスで動きを作る
4)横顔や足を見せるカットについて

これらについて順番に語ってみます

1)キャラを左右隅に極端に寄せて空間を取る構図

キャラを極端に寄せている構図の中でもキャラの顔や視線の方向が空間と逆(枠の方)を向いているシーンはとても印象的です。キャラが歩くなどのトラックショット(カメラが被写体に合わせて動く)でもキャラを極端に左右に寄せて、進行方向と逆の空間を広くとって見せるという構図がよくみられました

よくあるキャラを中心に据えた構図は、誰がなにをやっているのかはひと目でわかりますが、いつどこでやっているかは不明瞭になります。それに対して、この構図はいつどこで誰が何をやっているのか、4Wがひと目ですべてわかるのが特徴です

更に言えば、この構図はキャラのアクションや展開中のドラマより、それを客観する背景が強調されているわけで、今のキャラクターのアクションがどういう環境の中で展開されているのか―教室か部室か廊下か、朝か昼か夕方か夜か、その場の空気感がサブリミナル的に刷り込まれるわけです。
キャラがいる画面の一部分に注意を向けさせつつも、その人物や進行中のドラマと無関係の他界が同時に存在することで、主題に注目させつつ同時に無駄とも思える空間が主題を客観させて、その場の雰囲気を刷り込む。キャラクターとそれを包む環境をまとめて見せる。けいおんの独特な実存感、空気感を支えたのはこの構図だったといえるかも知れません

また、極端でないまでも、監督の絵はあまりキャラをセンターに配置してアクションさせないで、配置を左右どちらかにズラす傾向があります。s2e24での梓が泣き出すような、キャラに注目させるべき大きなシーンですらそういうことをやっています
これには構図的なバランスもあるのでしょうが、センター配置でバーンと注目させることは、美意識の次元で是としないのかもしれません。またそれを避ける事で、視聴者が自ら求めて対象を見るよう訴求しているのだろうと思います。またこの構図は、注目したいキャラクターがカメラのセンターにいないことから、視聴者側に欲求不満が生まれます。おそらく、それによってキャラクターへの愛着を煽る効果も少なからずあるでしょう

またこの傾向は凡庸な構図を切り札にしてもいます
s2e20のライブの後の部室のシーン。唯がみんな!といって抱き合って泣き出す場面では被写体をセンターにおいて真っ向から感情の爆発を描いているわけですが、こういうストレートな見せ方はむしろ珍しく、それだけに強いインパクトを持っているといえます

そうしてみると、彼女の絵作りには意志が込められていると感じます。この場面はこのアングルで彼女たちを映さねばならないという明確な意志です。けいおんが作り手の愛情に溢れた作品だと思わせる理由のひとつは間違いなく、カメラワークにキャラクターに対する作り手の意志が感じられるからです。視聴者はそれを無意識に受け取っているのでしょう

2)平面的な構図をとりつつ会話ややりとりで動きや奥行きを見せる

真横や真上からただ写しただけの平面的な画面を作りつつ、会話で動きをつけるということもしばしばありました。映画けいおん!では、部室でさわちゃんを含めた6人で、これまで何回お茶をしたのかと話しているシーンが典型的です

この場面の会話は、唯→紬→律→澪→梓と画面右手前の唯からジグザグに画面奥へと発言していき、最後に一番奥の梓から手前のさわちゃんに帰ってきます。カメラは一切動いていませんが、会話によって視聴者の視線は順番にキャラクターに誘導されるので、動きと奥行きが生まれています
これは、二次元的な構図を二次元に見せないためのテクニックとして意図的に使っているのだろうことが推察できます

3)重なるように複数の被写体を枠の中に入れてフォーカスで動きを作る

発言者によってフォーカスを変えるのも、意識を誘導することによって二次元的な構図に手前と奥の動きを作っています。このテクニックはピントが二度変わることもあります(つまり話し手が画面内のA→B→Aと戻る)。そのたびに視線が誘導され、二次元の絵に手前と奥を意識させられるわけです
また、この技法は視聴者の意識に寄り添っていて物語にのめり込みやすい。見ている側は、一方が話していると、次にフォーカスが移動してもう一人の人が話すのだろうと察することができ、映像と視聴者の間でキャッチボールができるからです

また話しているのはピントのボケている方で、カメラは話してない方の人物にフォーカスしていることもあります。これも視聴者の意識の誘導のテクニックで、同時に複数のドラマを見せたい時によく使われています。表向きの会話の一方で、別の思索が展開しているわけです。これも物語にのめり込ませる効果があるといえます

2)3)の技法は無論、山田監督のオリジナルではありませんが、彼女が画面にメリハリをつけるために好んでこれらを使っているとは言えます。これらはフィクスの退屈な構図に、キャラクターのアクションに頼らず、どう動きをつけるかという思索、要求からのものでしょう

4)横顔や足を見せるカットについて

ファンなら誰でも印象的に思っているであろう横顔と足のアップショットは、共に感情を表す目的で好んで使われているようです。監督自身、つい横顔を多用する癖があるといっているし、足に感情が現れると思っているとも言っています

横顔については構図的にアップで見せることは少なく、画面の中でどちらかに寄せる傾向があって、1)同様の効果を狙ってもいます。足はむしろ画面のセンターに持ってきてそれをしっかり見せるということをしているので、両者は共に婉曲的な感情表現ですが、構図には違いをつけているようです

映画でのように横顔や足の動き自体を見せることを中心に描かれるシーンもありますが、映像の流れの中に緩急をつけるために挿入する静物や風景のカットやカーテンショットと同じ位置づけで入れている印象も受けます。特に足のカットにその傾向があります。会話で顔Aアップ→顔Bアップ→B足→全体遠景(そのシーンのマスターカメラ)とかの流れです。映像のリズム作りと感情描写の一石二鳥を狙っているのではないでしょうか


簡単に見てきましたが、こうしてフィクスの映像が個性的な一方で、山田監督はあまりパン(カメラを動かして視点を移動)やズームを多用しない印象があります
例えば長台詞で止め絵をゆっくりパンするアニメ映像が多い中で、彼女はこうしたシーンでも、カメラを切り替えつつあくまでフィクスの構図、テクニックで魅せることを追求しています。フィクスで個性を発揮することは彼女の拘りではないでしょうか。そしてそれは見てきたように、二次元的な構図を見せているようで、それが二次元でない仕掛けに腐心しています。二次元を意識的に使いながら二次元から逃げようとしているとも思える。つまり発想が実写的なのです

ですが、映画では幾つかの場面で面白い映像が見られます
ロンドンでティータイムを言い出す俯瞰のシーンや、4日目の鳥から観覧車なめのシーン、ごはんのサビで斜め俯瞰からカメラを動かして舐めるシーンなど幾つかのトラベリングショット(カメラが動きながら被写体を写す)です。これらは二次元でなく三次元の映像技法です
これらはTVシリーズではまず見られなかった映像で、けいおんといえばフィクスで見せるものと無意識に目が慣れていた自分には、あれらのカメラワークには率直に言って衝撃を受けました。特にごはんのサビでのクレーンショットは、あのライブを撮影するクレーンカメラの動きが想像できるほどのものです

山田監督は映画で初めてライブ回を担当したそうですが、あれは動画を潤沢に使える映画だからこそやりたかった動きに違いありません。そしてああいう絵を撮ること=実写こそが山田監督の行きたい方向性なのだろうことは、十分伝わってきました。事実、公開前後のインタビューでもそれをほのめかす発言は随所に見られました。しかし今はアニメで学ぶことがある、とも。彼女の才能が実写に行く前にけいおんを作ってくれて、本当に良かったと思います


というわけでとりあえずはこんなところです
実はまだ指摘すべきことはいくつかあるのですが、それを語るには自分には勉強が必要なのでしません。重ねて自分は映像の知識は素人ですから、これらの指摘が妥当であるのかどうかは読者に判断を委ねるとして、けいおんの映像作りの論考の一助になればと思います

テーマ : けいおん!
ジャンル : アニメ・コミック

何度目かの私的総括論:モキュメンタリーとしての「けいおん!」

2chを巡回していたら、某スレでけいおん!がどのように画期的であったかを論じてる下りがあったので、私論をぶっておきたくなったのでブログに書いておく
まあ、過去にもけいおんの総括論は何度か書いていて、それと重なる部分もあるけど、それはご容赦していただきたい
 
自分は「けいおん!」を10年に一度クラスの革命的作品だと思っている。ヤマト、ガンダム、エヴァといった革命的作品の系譜に連なるに値する作品と評価している。それはこの作品が従来のアニメにない画期的な技法、表現をアニメに持ち込んでいるからだ

自分は以前、この作品を90-00年代に乱造された萌えアニメのアンチテーゼでありオルタナティブであると評した
けいおん!という作品は確かに萌えアニメのオルタナティブである。それは間違いない。だが今は、アンチテーゼであるという部分は撤回しなければならない。なぜなら山田尚子監督の頭の中には、従来の萌えアニメなど最初から意識になかったことが今では様々なインタビューで語られ、また自分自身、そのようにこの作品を評価しなければならないと意識を改めたからだ。「けいおん!」は従来の萌えアニメの技法を踏襲して作られたものでも、萌えアニメのミームで作られたのではない。踏襲された技法は、おそらく実写映像、実写映画のものだ

端的に結論から言う
「けいおん!」の何が画期的なものであったか
それはこの作品がドキュメンタリズムに基づいたフェイク・ドキュメンタリー=モキュメンタリーの技法をキャラクターアニメに持ち込んだということだ

「けいおん!」が、キャラクターの記号化を否定して、実在する少女の記録映像的手法、つまりドキュメンタリー映像を意識した映像を作っていることは今更語るまでもない。ライターの藤津亮太氏はけいおんをリアル路線の延長にあるハイディティール作品と評していたが、それは表面的なものだ。リアリズムは、この作品がドキュメンタリーを意識した映像を作る上で必要な「手段」であって作品が目指している「目標」ではない。この作品が目指しているものはその二歩向こうにある
リアリティに基づいて描かれる彼女たちは、それでもあくまでアニメの創作人物なのだ。つまりドキュメンタリーに見えてドキュメンタリーではない、キャラクターの一挙一動一語の全てには、その影にクリエイターの創作性、作為がある。つまりその意味において本作はモキュメンタリーなのだ

だが、本作はモキュメンタリーの面白味を狙っているのではない。つまり、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「第九地区」といったモキュメンタリー映画、あるいはモキュメンタリーを意識した「SIREN」などのゲームのように、架空現実を作りそれを現実と混同させ、それを作品の魅力として見せようとしているのではない。「けいおん!」が追求しているのはあくまでアニメとしての映像でありドラマで、それを成し得たのは山田監督がいうところのキャラクターへの愛情ゆえであって、その意味では、けいおんがモキュメンタリーであることもおそらく結果に過ぎないのだろう

まとめると「けいおん!」は
00年代までの萌えアニメが陥ったキャラや物語の「記号化」を否定し
ガンダム以降追求されてきた「リアリズム」を手段として描いた
作為的創作物の生活を「ドキュメンタリー」として見せている
「フェイク・ドキュメンタリー」といえる


そしてここにこそ、この作品の器の大きさ、奥深さがある

「けいおん!」は、ドキュメンタリータッチの作品であるがゆえに、ただ美少女たちの日常風景を通じて青春を描いた萌えアニメとして流し見ることができる。しかし、それがフェイク・ドキュメンタリーであることを踏襲して見れば、クリエイターの真意をつかむためには、登場人物たちの一挙一動にクリエイターの狙いの存在を疑わねばならない。さりげない仕草、意味のないと思われる自然なセリフ、おこる出来事、挟まれるものや風景、それらすべては実在の人物のものではなく作為だからだ。つまり、万事においてそれがそうである理由があり、そこにはメタファーがある。そうしたクリエイターの仕掛けた作為を読解することを通じて、真の狙い、本当に伝えたい、見せたいテーマが浮かび上がってくる
恐ろしいことに、「けいおん!」はそういう作品の作りになっている

自分が記憶する限り、このような、誰でも楽しむことができるほど安易で、同時に読解は難解というアニメ作品を、自分は他に知らない
そしてだからこそ、この作品は模倣が困難なのだ
けいおんは確かに画期的な作品だが、ついにフォロワーは生まれないかもしれない。自分はその危惧を強く持っている…というより今はなかば諦めてもいる。アニメ業界に、この作品の手法を踏襲できる人は、やはり山田尚子しかいないのかもしれないと思っている

テーマ : けいおん!
ジャンル : アニメ・コミック

けいおんの総括と、アニメシーンにおける存在意義を考えてみる

唐突ですが、思うところあって、久々に考察、というか雑考を書いてみます
 
■ 口上

相変わらずネットの言説では、けいおんについて「中身がない」だの「成長してない」だの「日常系」だの「なんでヒットしたのかわからない」だの言いたい放題で、フィギュアの首を折った某レベルに達してない監督のアニメはアンチけいおんの目的で某アニメを製作したとか(笑)、ニコ動でまど☆まぎについて評論してる連中が暗にけいおんを揶揄していたりとか、言いたい放題されてるわけです。残念なことに

しかし先のTBS社長の会見にあるように、けいおんは1決算期ですら30億近い利益を局にもたらすほどのソフトだったわけで、これほどのヒット作が単にそんな浅薄な理解で結論づけられてよいわけがない。むしろなぜそういうソフトたり得たのか、その特別さをちゃんと説明できなければ、その先を語ることはできないんじゃないかと思います

そう思って、けいおんという作品をどう評価し、アニメシーンにどういう影響をもたらしたのか、ということについて考察し総括している言説をネットで探してみると、これが意外なほど見当たらないのです。考察しているものも数ある萌えアニメの一つ程度にしか捉えていなかったり、あるいは京アニマジック的な納得をしていたりして。いやそれで納得しちゃうのはちょっと違うだろうと。これほどのヒット作なのにどうして誰も総括しないんだろう?というのがありまして、今回の記事は、じゃあ自分がどう考えているか、ブログに書いておこうと思ったわけです

とまあ、自分的には過去の記事でわりと終わってるんですけどね。同じことをまた言うだけのような気がしますがw

■ 総論

というわけで、いきなり総論ですw まとめると以下のようになります

1 ●けいおんは、90年代のエロゲブームの流れを汲み「美少女」「エロ」「記号化」の三要素を主軸に、
男性的感性によって構成された過去20年間の萌えアニメのテンプレを踏み台に、これを批判的に分析解体し、女性的感性で一般向けにパロ化、再構築した「新しい萌えアニメ」だった。言い換えれば、けいおんは従来の萌えアニメのアンチテーゼそしてオルタナティブだった

2 ●「萌えアニメ・オルタナティブ」であるけいおん!の成功は、90年代以来隆盛を極めたエロゲのDNAを持つ萌えアニメが、実はすでに消費者に飽きられていた現実を表面化させ、90~00年代の「旧い萌えアニメの覇権時代」に終止符を打った。けいおんはそのような作品として評価されるべきであり、またその功績だけでも、けいおん!はアニメ史に名を残してよい

3 ●けいおんと勝負するなら、同じ方法をとらなければならない。すなわち従来の萌えアニメを批判的に分析解体し、そのオルタナティブたろうとすることだ。またそうした作品だけを、けいおんのライバル候補と認定することができる。日常系のくくりで旧い萌えアニメとまとめてみるのはカテゴライズとして不適切であり、上記した旧い文法で作られた萌えアニメがけいおん!に対抗しうると期待するのも間違いである

4 ●09年以来、総合的なコンテンツソフトとしてけいおんに比類する深夜アニメは未だ存在しない。それはけいおんが萌えアニメの体裁をとりながらも一般向けの作りをして一般市場を開拓したからである。比類するヒット作を作るには、萌えアニメを一般向けに作れるかどうか、非現実性やオタク用語、閉鎖性を排して、萌えアニメに万人向けの普遍的な訴求力のある世界観なり物語性を打ち出せるかどうかが鍵になると思われる

以上。あとは各論を書いていくだけなのですが、自分的には蛇足という感じで、ぶっちゃけめんどくさい(笑)
当ブログの過去の記事や、過去の山田監督のインタビュー記事を見れば、1項についてはわかるんじゃないかと思います
でまあ、何が言いたいかというと、けいおんについて自分はこういう評価をしているので、口上に書いたようなネット言説のけいおん評にまるで納得がいっていないということですね

■ けいおんがなぜ一般市場への訴求力を持ち得たか

と、記事をまとめてしまってもいいのだけど、あまりにも乱暴なので(笑)、蛇足ながら前項1について補足しておきます

けいおんがなぜ萌えアニメの体裁をとりつつも、一般人への訴求力を持ち得たか。それは間違いなく山田監督の製作姿勢にある。けいおんは、山田監督が自称するように、普通の女性の感性で、従来の萌えアニメを客観的に分析し、女性の感性で作り直したものだった。つまり、いわゆる(旧来の)萌えアニメに対する視点が一般人に擦り寄っていたのだ

普通の人は萌えアニメを見て「美少女の髪の色がピンクだの青だの現実的な色じゃないなー」と思う。だから茶や黒や金系の実際にありそうな色にする。普通の人が「美少女のスカートが翻りすぎだろw」と思うからめくらせない。普通の人なら「ポーズが狙いすぎだろ」と思うから不自然なポーズはやらない…等々、けいおんは萌えアニメでありながら従来の萌えアニメに批判的な視点で作られている。かといえば「萌え萌えきゅん!」などと作中で萌えを茶化して「ネタ」にしてみたりもする。それまでの「萌え文化」を客観して作られた故意犯的な萌えアニメなのだ。だが、恋愛要素や男性キャラなど、従来の萌えアニメ支持者であるオタク受けの悪そうなネタは絶対にやらない。原作であったりっちゃんの恋愛疑惑すらとりあげなかった。オタクの支持は確保したままで、一般人の視点を持ち込んでいるところがまた狡猾(?)だった

意地悪く言うと、けいおんは萌えアニメとしてオタクを取り込みながらも、一般人の側に立って「萌えアニメって変だよなー!」と指さして笑ってるような作品だったのではないかと思う(ってひどい言い方だが)
……あるいはだからこそアンチに嫌われているのかも知れない。いや、そこまでわかってけいおんを見ているアンチなどいないか。でも、だから自分はけいおんが好きなのだけど

なんにせよ、けいおんの成功をこのように理解し、それを踏襲できなければ、けいおんに比類する作品を作ることはできない、というのが自分の結論です

■ 客観化とオルタナティブが停滞を打開する

ここまで書いてきて、勘の良い人にはわかると思うのだが、まど☆マギも従来の魔法少女モノを客観化し、分析解体してオルタナティブを提示することで成功した作品としてある。実はけいおんとまど☆マギの成功の共通点を自分はそこにあると思っている。ガンダムシリーズも何度も旧作を分析解体してリビルドするということをやっている。それによってそこそこの安定した支持を受けているわけで、新しいものを下手に作るよりは、温故知新の姿勢の方が案外安定した商売につながるのかもしれない

この記事は別にアニメの将来を考えるものではないのでこれ以上掘り下げないけれど、従来の作品を客観的に分析し、構造を解体してリビルドすることによってマンネリが打開され大ヒットするという好例がここ数年続いたわけで、そこにあるいは次のヒット作が生まれるヒントがあると思いますね

■ けいおん!の後に来たもの

09年以降、市場規模でけいおんに比類する深夜アニメコンテンツはありません。自分に言わせれば、けいおんが行った「萌えアニメ・オルタナティブ」はこの20年で最大の規模の既存概念に対するオルタナティブだったから、それは当然といえば当然なのですが
けいおんは旧い萌えアニメの覇権を終わらせた、それによっていろいろな試みがされているのが今の深夜アニメシーンだと思うわけです。「旧い萌えアニメ」は今も一定の訴求力を持っているが、それ以外の作品でもヒットができるという前例を作ったことは、けいおんが蒔いた種のひとつと言っていいでしょう
けいおんはまた、そういう作品として評価を受けてしかるべきと思うのですよ

とまあ、今日はひとまずこんなところで

テーマ : けいおん!
ジャンル : アニメ・コミック

<構造解析> 将来・進路決定の物語

これまで毎回、感想を通じて各回のエピソードが描いたものを整理してきたが、最終回を終えて、シリーズを通してこの作品がどういうドラマを描いてきたのかを、エピソード間の繋がりを縦割りの視点で踏まえながら考察してみようと思う

最初のテーマは、3年生組の進路決定の物語を取り上げてみる
もちろん話題の題材(?)ということもあるのだが、実際のところ、これはこの作品のもっとも重要なメインストリームとなるドラマであり、やはりここから語らなければならないのだ
他の要素は枝葉とはいわないが、全てこの大きな流れを幹として繋がるものといえるだろう

ただし、今回は梓と3年生組との関係性はあえて触れず、卒業生である唯たち4人の変化を見ていき、どういうドラマが描かれていたのかを振り返ってみる

予めお断りしておくが、以下はあくまでひとつの私見であり、他の見解を否定する主旨のものではない
その点をご留意いただいて、興味のある方だけ読み進めてもらいたい

■ 進路決定に至るまでの紆余曲折

4人は#21において進路を決定するのだが、まずその前の#20までに進路決定を巡ってどういうドラマがあったのか
重要と思われるエピソードをかいつまんでおさらいしたい

● #01「高3!」 ~ワクワクの唯と進路を口にする澪。唯=モラトリアムの勝利
  (過去の参考記事→  

この回は、4人の間で高校3年生という一年間についての認識にズレがあり、それが唯の考えに合意するまでの物語である

唯は高3という新生活に前向きで「3年生だよ、一番上の学年だよ、3年生ってどうしたらいいのかな」という台詞にわかるように、現時点での喜びに浮かれているばかりだ。クラス分けでみんなが同じクラスになったことにもただひたすら喜んでおり、さわ子との会話に見えるように3年生の終わりを見据えてもいない
唯がこの問題に対して持つスタンスをもっとも象徴する場面は、講堂に向かう渡り廊下のロングシーンだ。講堂へと歩いていく3人。だが遅れてきた唯は立ち止まり、足元の桜を拾う。ここでは唯だけは鈍い歩みで、その時その瞬間の感動、今の価値を拾ってから先に行く人物であることが示されているのだ。ちなみに、桜を「今の価値」の寓意としてみるのなら、11しかない桜の花は、4月から3月1日の卒業日までの高校3年生の11ヶ月を象徴している
唯はまさしくこの作品の「今を生きる青春」を体現する人物で、学生のモラトリアムの象徴といえる

一方、他の3人はどうなのか

印象的な場面は、澪の唯に対する「一緒なのも嬉しいけど進路も考えないと」の台詞に、唯以外の3人はふーっとため息をつくギャグのシーンだが、ここから唯以外の3人は進路問題が将来に待ち受けている現実を無視していないことがわかる。ただしその感じ方は3人でバラバラのようだ

紬は進路の件ではため息をつくが、校歌斉唱の場面は笑顔であり、唯同様に浮かれる気持ちがあることが推測できる。紬の最大の幸福は仲間たちと共にあることであり、その意味では唯と同じように現時点の嬉しさが上回っていることが推察できる

浮かれる唯ともっとも対照的に描かれているのは律で、表面的には普段と変わらないが、「3年になったこと」に浮かれる唯に「なにがそんなに嬉しいんだよ」とシニカルな言葉を投げかけており、唯の浮かれる気持ちへの共感がないことがわかる
そして講堂に向かう渡り廊下のシーン。カットが切り替わる直前、なんと律はうつむいている。そして続く校歌斉唱では瞼の落ちた律の横顔は虚ろで暗く見えるのだ。これを単に退屈な行事に飽きているだけという読み方もできるが、やはり律の心が高校3年を迎えてとても浮かれる心境ではないこと―つまり、唯とはもっとも対照的に、この1年で高校生活が終わることに落ち込んでいる、と見るのが妥当だろう。だが、のちのエピソードでわかるように、進路に対して何ら具体的な指針を立てられない律は、将来・進路問題について唯のアンチテーゼを示せるわけでもない

唯との対立軸となる価値を提示しうるのは、やはり先の台詞で「進路」という単語を初めて口にした澪だろう
澪は唯のはしゃぐ気持ちに一定の理解を示しつつも、進路問題が控えている常識を当たり前のこととしてきっちり認知している。でもそれが澪の心に影を落としていないことは、校歌斉唱での表情に陰りがないことからもうかがえる
澪はこの一見矛盾した双方の視点を同時に持つことが出来る人物であり、それはメルヘンチックな妄想癖を持つ一方、平時はごくごく常識的な優等生として振舞っていることや、第一期#04と#10の合宿での練習と遊びに対する主張の変化(遊ぶことやゆとりの受容)からも、すでに描かれていることだった
余談だが、校歌斉唱のシーンは、現実に対する律と澪の受け止め方の違いが現れているとも言える。律は現実の重みを素の心で受け止めてしまうが、澪は現実を常識・理性で受け止めることができるのだろう

そしてこの澪の常識観こそが、4人の将来・進路問題を巡る唯との対立軸である

このエピソードでは、その後4人の関心は自分たちのことよりも、後輩のいない梓への気遣いに移ってしまう
Bパートに入り進路問題は棚上になったのかな、と思えるが、実はそうではない
その梓の後輩問題はひとまず唯の「このままでいいよ」で決着するのだが、ここに重大な問題のすり替えがあるのだ
それはこの唯の発言は問題を抱えた梓に向けられたものではなく、さわ子の立ち会いのもとでの3人に向けられたものだということだ。唯の台詞は梓の抱える問題を何も解決していない。実はこの台詞が解決したのは前半で描かれた、4人の進路問題への姿勢である

つまり他の3人は(澪の言うように)将来を憂うより、唯の今を楽しもうという価値判断に賛同したのである

総括すると、第1話は進路と将来を見据えるテーゼが澪から提示されたものの、唯の今を楽しむというアンチテーゼ、モラトリアムが勝利したのだ
そしてそれがその後の3年生組のコンセンサスになり、進路問題はこの後長く棚上げされる

● #04「修学旅行!」 ~大人化を解除され、モラトリアムに還る澪
  (過去の参考記事→ 

この回は監督役に徹して他の3人に同調せず、大人的であろうとした澪が、3人と同じように笑える=等身大で今の時間を楽しむようになるまでのエピソードと言える

この回、澪の頭から決して進路問題が消えていないことは受験祈願を書いた絵馬からも伺えるが、澪がこうなることは、#01で澪が進路を口にした張本人であることを踏まえてみれば物語の脈絡として至極当然ともいえる
その澪の常識感覚と強い理性は、この回では形を変えて監督役という「大人化」として発現したのだ

だが、その澪を律がモラトリアムの側に引き戻す
律は最初から監督役に徹しようとする親友・澪の不自然さを見抜いており、それは行きの新幹線での澪に梓がお茶を差し出すシーンにまず現れている。澪にお茶を進める紬に律は「さすがムギ」というが、これはよく考えると「さすが」というほどの行為といっていいのかという違和感がある。だが、「監督役になろうとする澪の気張りを解こうとしているのだ」と解釈すると意味が通るし、そういう意味では紬もまた、気張っている澪の異常を見抜いていたのだろう
また、この回では律と唯の遊び人コンビがめざましく機能するが、#01を踏まえると律が唯の感性に同調して見習い、#01でのコンセンサスを忘れかけた澪に、その認識を還元したという見方も可能だろう
かくして、律のギャグに笑えるようになった澪は、大人じみた達観から開放されて、友人たちと同じモラトリアムの側に還ったのだ

この回を総括すると、#01を踏まえたモラトリアムの肯定ということができる
絵馬で密かに受験を意識しつつも、それを打ち消すように現在の楽しさが肯定され、さらに将来の進路問題は先送りされたのだが、改めて澪が唯に対するもうひとりのキーパーソンであることが示されたと言えるだろう

● #07「お茶会!」 ~プロローグ:空のむこうという未来にいる曽我部
  (過去の参考記事→ 

この回では、和が憧れの先輩、曽我部を空を通じて思う
「先輩とは空で繋がっているのだ」とはスタッフコメンタリーにある通りだが、また校舎内と空(学外)という空間の差は、そのまま高校時代と卒業後という時間の差を寓意してもおり、さらに曽我部が唯たちの将来、未来像を寓意するものであることは、彼女が北海道のクラーク像の脇にいることから決定的でもある

つまりこの回は、曽我部という唯たちの1年先(1年後の姿)にいる女子大生をあえて視聴者に意識させ、#01から棚上げされていた3年生組が見据えるべき「将来・進路問題」を初めて(改めて)、表のテーマとしてほのめかした回である

これを鏑矢とし、次から3話続けて、唯の将来・進路問題に対する問題意識を描くエピソードに突入する
#08~#10の3話については以前考察をしてあるように、トリロジーと見るべきだろう
詳細は以前の考察を参照してもらうことにして、ここでは簡単におさらいをする

● #08「進路!」 ~トリロジー1:過去への問い。唯を支えてきた1人の親友

  (過去の参考記事→  

この回はタイトルからして「進路!」であり、進路調査票を出していない唯に焦点が当てられる
#01で一度口の端に登りながらも誤魔化され続けてきた将来・進路問題がついに露呈し、#01以来、3年生組のコンセンサスであるモラトリアム肯定というイデオロギーの象徴である唯が、将来・進路を考えなければならない、という命題を突きつけられることになる。すなわちシリーズ中でも屈指の問題提起となるエピソードと言えるだろう

この問題提起から、モラトリアムの全肯定というそれまでの流れは変わり始める

この回では唯と和の過去と澪と律の過去が描かれたことからわかるように、「過去」というテーマがある
和がかつての唯の「夢」をあれこれと列挙するシーンがあり、将来・進路問題に対しての過去への問いかけが行われているのだが、唯は遂に進路を決めることができない
つまり#08は将来・進路問題について唯が過去に回答を求めたエピソードであり、結論として、唯の思考が亀の歩みであることが示された以外に過去からの収穫はなく、進路問題は保留されるのである

一方、進路問題について唯以外のキャラクターはどうか

視聴者を全く置き去りにするように、すでに紬と澪は(和も)進路を決めている
決定に至るふたりの葛藤や思案は一切描かれていない。ここに強い違和感があるが、重要なことは示されている進路決定に対する3人の主体性、積極性の差である
澪は推薦狙いであり、主体的かつ具体的に進路を想定している事がわかる。親友である律との別れの葛藤はどうクリアされたのかは作中を通して全く描かれていない。ただ澪が推薦を狙っているという事実のみが澪の意志として提示されている
一方、律は「未定」だった。さわ子から「ちゃんと考えなさい」という説教に「へーい」とこたえていることからわかるように、律は唯のように何かやろうと思いながらも何も決められないのではない。積極的な「未定」であり、要は「そんなのわかるか!」という放り投げである。つまり進路について、律は主体的な指針をもってはいないのである
そして紬も(原作によれば父親の勧めで)受験先を決めており、これも強い主体性のない進路決定といえる

つまり、この回で将来について主体的にあれこれ考えて決めようとしているのは唯と澪だけであり、またしても#01で描かれた対比に回帰している
4人の「将来・進路問題」がやがて唯か澪の決断に委ねられることは、#01を踏まえて、この#08でほのめかされているといえるだろう

また#08では将来・進路問題を巡るさわ子と和の傍観者、観察者としてのポジショニングが定義された

さわ子が唯たちの傍観・観察者であることは#01での「あなたたち、1年って…」の台詞からわかるように#01から暗示されているが、この回では公然と、唯たちに進路問題を突きつける者というドラマを転がす重要な役回りを与えられており、さらにさわ子自身が唯たちの道をすでに通った先輩であることも示されている。さわ子が見せた遠い目が唯にかつての自分を見たものであったことも、後に#10で明かされることになった
以後、さわ子は唯たちの最良の観察者としてドラマに描かれることとなる

またこの回で、唯と和の将来的な別れが暗示されている
階段を登る亀を進行方向になでる唯と、階段を登る亀を送り出すように撫でて階段を下っていく和。亀が唯の寓意であることは言うまでもなく、和が唯を送ることはあの場面に暗示されていた。そして事実、それは24話での階段を上下に別れるふたりの会話へとつながっていく
幼稚園から続く絆で結ばれた唯と和の別れの物語は、まさにこの回から静かに始まっていたといえるだろう

● #09「期末試験!」 ~トリロジー2:唯の現在を示す、3つの評価
  (過去の参考記事→ 

試験と演劇ステージという、その時直面しているふたつの問題にどちらも全力で取り組み、改めて今を頑張るという唯のひたむきなキャラクターが描写された
ここでは唯が3つの評価を受けている
表面的には中間試験。次にステージでのトミからの評価。そしてステージをフォローする梓からの評価である。そのいずれもが唯という人物を浮かび上がらせる要素であり、総じて唯の現在にスポットが当てられたエピソードといえる

このエピソードでは「将来・進路問題」は表面的には描かれていない
しかし「将来・進路問題」を背景として、唯があくまで現在を頑張る人物ということが再確認されたと考えるべきだろう

● #10「先生!」 ~トリロジー3:唯たちの未来を示唆する、2人の人物
  (過去の参考記事→ 

「先生!」というタイトルはそのまま人生の先生、お手本であることも暗喩している
信号待ちのシーンに象徴されるように、軽音部OGたちと唯たちが対比されたエピソードであり、OGの姿は言うまでもなく、唯たちのひとつの可能性の未来でもある。そのもっとも重要な情報は、DDの絆が大人になった今も続いているということであり、唯たちの絆もまた永久不滅であるはずだという暗喩がこの回からは受け取れる

この回では唯が「あたしも大人になったら大人になるのかな」という印象的な台詞を言う

それは#01以来モラトリアムの象徴だった唯が、初めて自分の将来像をぼんやりと意識したメルクマールでもあったが、それ以上にこの台詞が、紀美へのあこがれから放たれたということが重要である。唯は#08からのエピソードで初めて、人生の先輩に将来のあこがれを抱いたのだ
一方、さわ子が、DDの過去を「あの頃においてきた」と自分に言い聞かせつつも、それは欺瞞だったことが描かれる
真実のさわ子は過去を捨てたのではなく過去を積み重ねて今がある。そしてその姿こそ、「あたしも大人になったら…」という唯のぼんやりとした問いの答えなのだ
故にこの回は、#08から続く唯の将来・進路問題に対してひとつの指針を示し、ひとつの区切りをつけたエピソードということができるだろう

そしてこの回では、さわ子がかつて進路希望調査票に唯と同じく「ミュージシャン」と書いて、堀込先生に突き返されていたことがはっきりと示される。#08の遠い目の理由が明示されたわけである
ここで、#08でさわ子はなぜかつての自分と同じ進路を出した唯と律にダメ出ししたのかを考えなければならない。実はこれは重要な示唆を含む問題なのだが、その考察はさわ子が進路調査票を受け取る#21まで保留する

● #12「夏フェス!」 ~オーラという名の絆。音楽という夢

  (過去の参考記事→ 

この回は、第一期の#04を踏襲して5人が絆と夢を共有することを再確認したエピソードといえる
そして、最も重要な会話が、ラストシーンで交わされる

唯 「でも、やっぱり私たちの方がすごいよ。一体感というか…なんというか…そう!オーラが!」
澪 「そうだよな…放課後ティータイムも凄いバンドだよ! な、唯!」

唯はここで、他の4人に重要な価値を示す。それはHTTへの根拠不明の自負心だ。唯の感性はおそらく本気でこの台詞を言っている。では、唯が確信しているHTTのオーラとはなにか
第三者的にはとてもプロには及ばない音楽。でもなにか別の理由があって唯にはすごいと思える。その理由は、#01で桜の花を拾うように今の価値を見つける唯が4人を差し置いてあえて指摘できるものであり、唯が理屈抜きに感得しているものである。おそらくそれはHTTの音楽が、5人の絆によって生まれる音楽だということであり、唯が感じているオーラとは「一体感」、つまり5人の絆のことだろう
実はこの「すごさ」は、第一期#08で梓が4人の音楽に受けた感動として既出の設であって、軽音部の音楽の魅力の根源が4人の日々の生活の積み重ねによって作られる絆にあることは、実は第一期#09で澪が、感動の理由がわからなかった梓に対して指摘したことである

この回、全編通して一番はしゃいでいるのは澪で、ラストを締めるのも澪のカット、そして澪の台詞であることから澪がエピソードのキーパーソンであることは明らかだ。だが、重要な台詞は唯から放たれている。一方の澪が握っている鍵とはなにか。やはりそれは、常識的な澪でさえ放課後ティータイムを通じて唯の思考に共感できるということに他ならないだろう
#01で「このままでいい」という唯の主張の対立軸だったのは、澪の示した「進路を考えなければ」という常識観だ
だが、そもそも澪の素顔は唯とはまた別のタイプの夢想家であって、夢みることについては澪は唯に負けずとも劣らずポジティブなのだ。この回の澪は音楽の祭典に参加できた感動で終始平時の冷静さを失っていることからわかるように、澪は音楽に対して強い情熱と関心を持っている。そんな澪が本来持っている情熱や夢想を誘ったのが先の唯の台詞だったということだろう
澪にとって音楽とは夢であり、HTTは自身の常識観を打破して夢想に向かう手がかりなのだ。そしてそれは他の4人にとってもおそらく同じはずである。だからこそ最後に5人は同じ思いで星を見上げるのだ

総括として、この回はこの5人が唯が示したHTTという価値への共鳴によって相違点を克服し、これからも続いていく可能性を示唆したと言うことができる。それは将来・進路決定というテーマにおいて極めて重要な事実であり、これが#21での4人の決定の決定的な要因になっていくのだ

● #13「残暑見舞い!」 ~夢を追いかける唯たち。はぐれる梓
  (過去の参考記事→  

花火を追いかける唯たちは、4人の進路を暗喩するシーンと言える
花火は第一期#04において夢の暗喩であり、その花火がさらに大きくなっていることも寓意だろう
それは今後の展開を予告するカットであり、#12を踏まえても伏線である

● #14「夏期講習!」 ~消極的選択としての受験
  (過去の参考記事→ 

この回で衝撃的?なのは、唯と律が受験を選択したことがはっきり語られたことだろう
夏期講習自体には#13で通っているので、その決定が#13以前からのものであることが推察されるが、その決定の理由は「今から就職活動は遅すぎる」からでしかない。つまり唯と律の選択は消極的選択であって、目標があってのことではないのだ
その消極性の問題解決は、#21で最終的に進路が決定するまで留保されることになった

● #15「マラソン大会!」 ~憂鬱な2学期。卒業の準備

  (過去の参考記事→ 

この回ではアバンに2学期を迎えた4人の様子が描かれている
部活動としてはいよいよ最後の学期であり、その様子は始業式の表情に濃く、これは#01の始業式と対比してみるべきだろう
澪は真面目、律は気怠そうに半眼で、ムギは笑顔、唯は寝不足である
A冒頭でははっきり澪が「受験生だろ」という言葉を口にして、唯と律は胸を痛める描写がある。4人にとって将来・進路の問題はすでに無視できない問題になっているということがいえるだろう
それを受けてムギが「楽しい思い出がいっぱいできたよね」と夏休みを総括しており、彼女たちが思い出作りをある程度意識的に行なっていることも示唆されている
つまり、この頃から4人は3年生を終える準備を意識、無意識にかかわらず初めているのだ

● #16「先輩!」 ~上級生の自覚。卒業の準備
  (過去の参考記事→ 

冒頭余ったケーキを、4人は梓に譲る
これは#14において余ったひとつのケーキを巡ってゲームをやったのとは対照的な描写だった
#14で梓が余ったケーキを「これを5等分することはできない」といっていたように、それまでは余ったケーキはおそらく等分されていたのである。だが、この回の冒頭の4人は、もうそれを梓と一緒になって奪うことはしない。上級生の自覚が芽生えているのだ(遅ればせながらだが)
これも#15同様、4人の3年生を終える心理的準備が始まっていると見るべきだろう

● #20「またまた学園祭!」 ~モラトリアムの終わりと、絆という成果
  (過去の参考記事→    

この回のメインテーマは、#01で示されコンセンサスを得ていた唯のテーゼであるモラトリアムにしがみつくことの終わりである。現状維持はもうできないという現実の受容である

すでに意識化しつつあった卒業という現実がすでに4人の誰にとっても欺瞞できないものになっていたことはホワイトボードの泣いているハンサムさんからも明白で、4人は高校生活最後のステージを自覚してライブに望み、それを大成功させる
ライブ終了後に、4人は「次はない」という不可避の現実をはっきりと言語化してそれまでの欺瞞を解き、その悲痛を共に分かち合うことで乗り越える
唯の認知、律の言語化、澪の自負、紬の同意。それらによって4人は改めて強い絆で結ばれ、卒業をまもなく迎える最上級生へとわずかに成長した

この回を総括すると、モラトリアムを終えた4人はその代償に「絆」という成果を手にしたといえる
それは#12を越えてこの回ではっきりと描かれた彼女たちの3年間の結晶とも言うべき最大の価値であり、次回の将来・進路問題を解決する最重要のピースとなるのである

■ #01~#20の総括 ~3つのストーリー

というわけで、#01~#20までをざっとおさらいしてきた
全体を大雑把に総括すると以下のような3つの流れになる

(1)モラトリアムを巡る意識の流れ (唯に象徴される現状保留の主張)

 #01:モラトリアムへの帰属(唯の意識への同調)
  ↓
 #04:モラトリアムの維持
  ↓
 #15~16:モラトリアムの揺らぎ
  ↓
 #20:モラトリアムの終わり

(2)進路問題を巡る意識の流れ (澪に象徴される将来を考える主張)

 #01:進路問題の意識化の拒否
  ↓
 #08:進路問題の具体化(澪の積極的な進路決定)
  ↓
 #09~10:進路決定要因の確認
  ↓
 #14:なし崩しの受験選択(唯と律の消極的な進路決定)
  ↓
 #15~16:卒業間近という現実への認知の浮上
  ↓
 #20:現実の受容

(3)4人の絆の流れ (唯と澪の合意点)

 #10:可能性の未来としてのDD。絆が永久不滅である示唆
  ↓
 #12:夢に向かう4人の共鳴、共感
  ↓
 #20:4人の絆の確認と強化

これを踏まえて、ドラマは4人が進路を決める#21に移行する

■ #21「卒業アルバム!」 ~鍵を握る澪、魂の焦点としての唯
  (過去の参考記事→ 

タイトルが象徴するように、ドラマ的にもこの回から卒業は完全に表面化したテーマになっている
また前段を受けて、言うまでもなく#21の4人は卒業を完全に意識化している

その上で、4人の進路決定問題が#08以来改めて浮上する
この時点で確定していないのは唯と律の進路で、受験をするということ以外は何も決めていない
さわ子に「どこの大学?何学部?」と突っ込まれてふたりは一言もない。そして消極的理由から、ムギと同じ学校を受験するということをいいだすのだが、この点も#08と比べても全く進歩がない。父親に決められて進路を決めたムギ。そしてそれに迎合する唯と律は、要するに将来の進路について、何らその具体的な目的意識を持っていないのだ
要するに置かれている状況も考えも、#08に全く戻ってしまっている

そこでこの回、進路決定の鍵を握っているのは澪の意識である
ここで再度指摘しておくが、#01で進路を考えなければと言い出したのは澪で、それを否定して#20までをリードしてきた「このままでいいよ」という唯のモラトリアムのテーゼが終わった今、新たなテーゼを示すのはドラマツルギーとして澪なのだ

推薦入試申請を控えた澪は、同じ受験先を決めた3人を不思議な表情で見つめる
自分だけが別れてしまうという思いは間違いなくあっただろうが、だからといって澪はその場で自分も同じ学校にいくと切りだしてはいない。それは常識的で理性的な澪にはできない安直すぎる決断だ

では澪が、推薦入試を蹴って3人と同じ進路を選ぶと決心したのはいつか。それを決めさせたものは何か

それを考えるためには、#20までの澪のアクションを再確認しなければならない
澪が印象的だったのは#04、12、20だろう。特に澪は#12では唯の思いと共鳴して常識的な考えを捨て、#20では唯のエネルギーに支えられたステージに充足を得た
#21までに澪が大きく成長することがあったとすれば、それは間違いなくこのふたつの出来事だろうし、そしてそのどちらににおいても唯が澪の心を開放する鍵だった。澪が唯を通して感じてきた価値だけが、彼女の常識的な考えを打破する鍵を握っている。もし別の進路を示唆して澪を翻意させる存在があるとすれば、それは唯の存在しかないと言えるだろう

それを踏まえて、やはり指摘されるべきはモンブランのシーンである
5つの栗が唯のもとに集まるのは5人の魂が集まる場としての唯という寓意と読むべきだろう
澪がケーキの頂点のアイテムを魂と思っていたことは#14を踏まえても間違いなく、あのシーンに「澪だけが」ワンカット挿入されるのは決して偶然ではない
おそらくまさにあの場面こそが、澪が唯に集った栗に自分たち5人を投影して、自分が居たいと思う場所を積極的に決めた瞬間だったのだ

そしてこの澪の決心が、唯、律、紬に還元される
みんなで同じ大学に行きたいという澪の願望は、#12で共有し#20で強化された絆を踏まえて、3人にとって初めて積極的かつ主体的に自分たちの将来、進路を決定する価値となった

こうして彼女たちは現実に流されて離散することを是とせず、最大の価値である自分たちの絆を動機として、意志を実現しようとする方向に舵を切ったのである

そして、#08で進路調査票を弾いたさわ子が3人の進路調査票を受理する場面に繋がる
さわ子から見て、#08での唯と律に欠けていて、#21には満たされていた条件はもう明らかだ。彼女たちをミュージシャンとして輝かせている仲間との強い絆、夢に向かうために必要な仲間の存在に他ならない
さわ子は4人の進路が一致したことを、単なる馴れ合いとは見なかった。それが4人の主体的で積極的な決断であり、自分が進めなかった夢に向かう進路であることを見抜いたのだ
余談だが、さわ子がDDを当時に置いてきたということは、さわ子の友人は唯たちのように同じ進路と夢を選ばなかったか、その挑戦に敗れたことを暗示している

■ #22「受験!」 ~#20の蹉跌を越える挑戦と自己実現
  (過去の参考記事→  

この作品において現実の非情さが描かれたのは#20と#24だった
先の考察に書いたように、#20は4人の最後のステージという現実が、#24は梓にとっての上級生との別れという現実が描かれた。それは共に本質的には「卒業」という、学生の彼女たちにとって不可避の現実、いってみれば運命に起因するものだ

しかし、受験は現実だが運命ではなく克服可能な試練である

だからここで改めて「受験は4人が克服可能な現実への挑戦で、その動機と武器は彼女たちが培ってきた絆」というドラマの構造が指摘されなければならない
またその絆は#20の挫折を経て成長した絆であることも留意されるべきだろう

それを踏まえて彼女たちは見事に受験に合格し、自己実現を果たすのだ

■ 総括 ~けいおんは古典王道であり、スポ根ものの現代的リビルドであること
 (過去の参考記事→ 

改めてまとめると、4人の進路決定の物語の骨子は以下のようになっている

 #01:現状維持を肯定する唯の意見へのコンセンサス
  ↓(1)    ↓(2)    ↓(3)
 #08:進路問題の具現化
  ↓(1)    ↓(2)    ↓(3) 
 #20:現状維持の挫折。現実の受容。絆という価値の強化
         ↓
 #21:4人の絆を重んじる澪の意見へのコンセンサス
         ↓
 #22:受験という試練の克服

このテーマにおいて、鍵を握っていたのは唯と澪だ
#01で4人が合意してきた唯の価値観が#20で現実の前に挫折し破棄され、#21で澪が示したこれからも共にいるという絆の価値が4人の新たな合意となり、#22の受験という困難を克服するというシンプルな流れだった
これは余談になるが、#24で泣いている梓に語りかけるのが唯と澪だったのも上記の流れを踏襲した演出だったことがわかるし、そもそも彼女たちの進路の鍵を握っていたのがOPとEDを歌っているふたりというのも、制作者の意図があってのことなのだろう

そしてこの「挫折を経た成長で次なる試練に挑戦し、克服する」という構造は少年マンガ的な王道で、古典的なドラマツルギーであることを指摘しなければならない

かつて70~80年代に盛んに作られたスポ根ものでは、スポーツを人生そのものに値する最大価値として定義した上で、試合でライバルに敗れる、苦手を克服するなどの挫折と克己が描かれていた。それはその後、バトルものにそのまま継承されていく王道展開となったが、実はけいおんの構造もこれと相似している
けいおんの最大価値として置かれていたのは部活動や放課後という時間を通じて学生時代の彼女たちが持つモラトリアムを満喫することだった。その姿勢が初めて挫折したのが#20での現実の受容であり、そのときに鍛錬され成長したのが彼女たちの絆だった。そして今後も一緒にいようとする絆を武器として、最大の試練である受験を克服する
こう書くと、けいおんでは要素の置き換えがされているにすぎないことがわかる
第一期の総括として軽く触れていたことではあるが、ここで改めてこの作品は70~80年代に盛んに作られたスポ根部活ものの正統な後継、最大価値をすり替えた現代的リビルドであると指摘されるべきだろう

というわけで、
これまでの考察を総括すると
進路のドラマは、挫折をバネに成長して試練を克服するという、手堅く平易な古典的王道だった
という結論になる


これだけの文字を費やして、結論はたった1行
いや、数学でもシンプルな方程式こそ真理なのだ。だからこれでいいはず…だと思う

■ 後記

というわけで、縦割りで彼女たちの進路と合格までの流れを見てきた
振り返ってみると、この作品はなにも特別なドラマは描いていない事がわかる
そのかわり、丁寧に丁寧に物語を描いていた

個人的に「けいおんは見たままだ」と思っているのだが、その「見たまま」を受け止めるのが非常に労力のいる作業だ
なぜなら込められている情報があまりにも膨大で、それがどういう脈絡を持って繋がっているかを読み解くのかは非常に手間のかかる作業だからだ。この考察はそれを実際にやったらどうなるかという思考実験でもあったが、やはりものすごい労力のいる作業だった

だけど、これを通じて何十回でも鑑賞に耐える作品だという思いは一層強まったので、次回はまた別の切り口から作品を見てみたいと思う

テーマ : けいおん!
ジャンル : アニメ・コミック

DATE LOG
07 | 2017/08 | 09
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
ARCHIVE
ブログ内検索
管理人について

超記憶術先生

Author:超記憶術先生
元業界人(コミック系フリーライター)
Twitter:@SuperMnemonic

問うまい


我の深部にHTTが潜伏したる理由を


我も亦 知らぬなり


こういう管理人w

RSSフィード
"けいおん"特化型ファンブログです
けいおん関連情報&けいおん声優の情報、及び、管理人の感想、考察、イベントレポートをメインに記事を構成しています
山田尚子監督関係の作品記事も取り扱っております
けいおん大好き!!
山田監督大好き!!(笑)
最近の記事
カテゴリー
最近のコメント
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。