【映画考察】 最後の学園祭と卒業ライブの「U&I」の相違
現在、78回見ていますが、多分最終的には81回かそこらになるものと思っているところですw
今回は以前から思っていた思索をまとめる意味での記事です
s2e20を見てから78回目を見たのですが、過去の感想にも書いたように、当然にs2e20の学園祭ライブと映画の卒業ライブは対比構造として語られるべきものです。特に演奏後の夕陽の中で泣く5人と、白昼の光の中でただ感慨に耽る5人は、彼女たちの意識の変化、明らかな成長が描かれていると言えます
が、そういう指摘はしておきながら、今まであまりふたつのライブの対比を掘り下げて語ってはこなかったので、そろそろそのへんをつらつらと書き連ねてまとめておこうと思いましたw
特に今回注目するのは、双方のライブでともに重要な楽曲である「U&I」の意味の違い、位置付けです
■ おさらい:s2e20学園祭/他者とのつながりへの感謝を伝達するステージ
過去の幾度かの記事(例えばこれ)に書いたように、s2e20のライブは唯たちが音楽を介して他者とつながり、その他者への感謝の気持ちを伝えたステージだったと言えます
備考ですが、3度の唯たちの学園祭ステージは、このようにまとめられます
1年生) PVイメージであることから、唯たちの内面的な理想、自己満足を求めた性格が強い
2年生) けいおん大好き!に総括されたように、唯たちが居場所を得た充足、現状肯定が描かれている
3年生) 音楽を介して他者とつながり、その感謝の気持ちを発信する姿が描かれている
つまり、学園祭ライブを縦軸でみれば、唯たちの世界が音楽を通じて内面世界から外面世界とのリンクへと広がっている、ということができます
その最後の楽曲が「U&I」でした。自分はこれをHTTの音楽の到達点と考えています
■ 5人の音楽活動の到達点としての「U&I」
s2e20でこの歌を演奏する前に、唯はステージの上から、音楽との出会いを介して自分と関わったいろいろな存在へ感謝を伝えます。「みんなみんな、ありがとう!」と言ってから歌われるこの歌は、紛れもなく「わたし」から「あなた」への感謝の歌です。「U&I」は「わたしとあなた」「わたしとあなたたち」という関係性の賛歌なのであり、その思いこそがs1e01からs2e20に至る「けいおん!」「けいおん!!」という作品が描いてきた、唯(たち)と音楽の出会いがたどり着いた場所といえます
しかしこの楽曲の位置付けは、学園祭ライブと卒業ライブでは大きく変わっています
今回の記事の主題はここです
■ 卒業ライブは3-2のライブであるということ
卒業ライブはそもそも帰国後、姫子たちクラスメイトの要望やジャズ研の企画に感化されて思いついたものです。当初、唯たちはこれを、(澪が)音楽室でやることを構想しました。しかしこれに信代がリクエストを出します。作中でははっきり描かれていませんが、このリクエストというのが、3-2の教室でやる卒業ライブというアイディアだったと思われます
この当初の澪たちの思いつきと、信代のアイディアを容れたライブとでは、本質的な意味が大きく変わっています。それは、澪たちの思いつきの段階では、卒業ライブは最後の学園祭同様、あくまでHTTが主体(わたし)として他者(あなた)に対して行うつもりのライブだったのであり、信代のアイディアを容れた教室での卒業ライブは、HTTを含む3-2が、主体(わたし)であり同時に他者(あなたたち)だということです。3-2全員が主体であり客体なのです
これは、卒業していく自分たちのために自分たちの手で行われる卒業ライブであり、ゆえにこそ、そのステージの準備から何から、3-2全体で取り組むわけです(正確にはモブ全員ではない、のですが…)
またこうしたライブの性格の違いから、唯たちが、部外者(卒業生ではない)である梓を誘うことに躊躇いがあった、という理解ができます
■ 「君」というクラスメイトに対して捧げられる詩
よって、ここでの「U&I」という曲もまた、そのように解釈されるべきものでしょう
3-2全員が主体であり客体とするこのライブにおいて、「I=わたし」は全員個々のことであり、また同時に「U=YOU=あなた」もそれ以外の全員の「わたし」のことであるということ、3-2の全ての個が他の個、全員に対して歌われている「U&I」であり、この時、この歌の詩はそのように理解されるべきです
だから、ここでの「U&I」はHTTが主体であり観客を客体として感謝の気持ちを伝達した学園祭ライブの時とは、まるで意味の違う歌ということができます
君が側にいることを当たり前に思ってた
こんな日々がずっとずっと続くんだと思ってたよ
この歌の詩はまさに、これから卒業して散っていく3-2が、互いが互いのために歌っている詩です。卒業ライブにおいて、HTTという存在は主体にとどまらず、3-2の一部でもある。だからこそ最後に唯はステージを飛び降りて客席に紛れるのでしょう
意味が変わっていても、この歌は成立している。つくづく、「U&I」という歌の懐の大きさを思います
■ 梓だけに捧げられるフレーズ
ただ、印象的な場面として、唯が梓にだけ歌うフレーズがあります
君の胸に届くかな 今は自信ないけれど
笑わないで どうか聞いて 思いを歌に込めたから
ここに込められた思いはもちろん、構想中の梓への歌のことであり、唯のその時の真情です
ですが上記の文脈から言うとむしろ、このフレーズを捧げることのできる、最も重要な存在だから、ということができます。3-2全員が主体であり客体とするこのライブにおいては、このフレーズを仲間に向けて歌うのはふさわしくない。歌に込めた思いは全員が持っているものだから、相手に伝わるかどうかを疑う詩は当てはまらないのです
このフレーズを捧げることのできる純然たる客体は、2年生の3人しかおらず、その中で最も重要な存在である梓にこそこのフレーズは捧げられるわけです
だからこのシーン、唯はこのフレーズを梓だけに向けて歌うのだ、ということができると思います
ちなみに印象的なことにこのシーン、ずっと腕を組んで仏頂面?で見ている巻上さんが一度瞬きをします
なお、3-2に憂と純を招き入れるのはいちごですが、いちごはs2e25での取材を通じて、憂、純、梓をまとめて「軽音部」と認識しています(s2e22参照)。よっていちごはふたりを軽音部のメンバーとしてこのHTTの卒業ライブの空間に招き入れているわけで、実はここでの憂と純は軽音部の一部ということができます
オカルト研は以前に記事にした通り、このライブを記録するための存在なのでしょう
■ さわちゃんのこと
余談ですが、この教室に招き入れられる教師ふたりのこと
これはおさらいになりますが、堀込先生がいう、「お前たちに比べれば可愛いもんだな」の意味は、以前に記事にしたと思うんですが、さわ子たちの卒業ライブが卒業への反抗であり過去への執着だった(さわ子のウィンドミルは過去向きの反時計回りの回転)のに対して、唯たちのこのライブが未来へ向かっていくための儀式としてのライブ(唯のウィンドミルは時計回り)だったから、であり、堀込先生が唯たちの真情を見ぬいたから、というのが自分の解釈です
つまり、さわちゃんはこの時点では唯たちに取り残されている。さわ子はライブの前、唯たちをふわふわの雛だと言いますが、実は唯たちのほうがずっと大人に近くて、自分たちが去っていく事実をちゃんと受け入れてこのライブをやっている。唯たちはこのライブを通じて、さわ子という先輩を越えていくのだと思います。しかし以前に記事にした通り、さわちゃんは寄せ書きという卒業証書をもらって、未熟な時代を終えて、子供たちを見送る側の「大人」、一人前の教師として認定されるのだと思います
今回はとりあえずこんなとこで。ああ。昨日に間に合わなかったwww
今回は以前から思っていた思索をまとめる意味での記事です
s2e20を見てから78回目を見たのですが、過去の感想にも書いたように、当然にs2e20の学園祭ライブと映画の卒業ライブは対比構造として語られるべきものです。特に演奏後の夕陽の中で泣く5人と、白昼の光の中でただ感慨に耽る5人は、彼女たちの意識の変化、明らかな成長が描かれていると言えます
が、そういう指摘はしておきながら、今まであまりふたつのライブの対比を掘り下げて語ってはこなかったので、そろそろそのへんをつらつらと書き連ねてまとめておこうと思いましたw
特に今回注目するのは、双方のライブでともに重要な楽曲である「U&I」の意味の違い、位置付けです
■ おさらい:s2e20学園祭/他者とのつながりへの感謝を伝達するステージ
過去の幾度かの記事(例えばこれ)に書いたように、s2e20のライブは唯たちが音楽を介して他者とつながり、その他者への感謝の気持ちを伝えたステージだったと言えます
備考ですが、3度の唯たちの学園祭ステージは、このようにまとめられます
1年生) PVイメージであることから、唯たちの内面的な理想、自己満足を求めた性格が強い
2年生) けいおん大好き!に総括されたように、唯たちが居場所を得た充足、現状肯定が描かれている
3年生) 音楽を介して他者とつながり、その感謝の気持ちを発信する姿が描かれている
つまり、学園祭ライブを縦軸でみれば、唯たちの世界が音楽を通じて内面世界から外面世界とのリンクへと広がっている、ということができます
その最後の楽曲が「U&I」でした。自分はこれをHTTの音楽の到達点と考えています
■ 5人の音楽活動の到達点としての「U&I」
s2e20でこの歌を演奏する前に、唯はステージの上から、音楽との出会いを介して自分と関わったいろいろな存在へ感謝を伝えます。「みんなみんな、ありがとう!」と言ってから歌われるこの歌は、紛れもなく「わたし」から「あなた」への感謝の歌です。「U&I」は「わたしとあなた」「わたしとあなたたち」という関係性の賛歌なのであり、その思いこそがs1e01からs2e20に至る「けいおん!」「けいおん!!」という作品が描いてきた、唯(たち)と音楽の出会いがたどり着いた場所といえます
しかしこの楽曲の位置付けは、学園祭ライブと卒業ライブでは大きく変わっています
今回の記事の主題はここです
■ 卒業ライブは3-2のライブであるということ
卒業ライブはそもそも帰国後、姫子たちクラスメイトの要望やジャズ研の企画に感化されて思いついたものです。当初、唯たちはこれを、(澪が)音楽室でやることを構想しました。しかしこれに信代がリクエストを出します。作中でははっきり描かれていませんが、このリクエストというのが、3-2の教室でやる卒業ライブというアイディアだったと思われます
この当初の澪たちの思いつきと、信代のアイディアを容れたライブとでは、本質的な意味が大きく変わっています。それは、澪たちの思いつきの段階では、卒業ライブは最後の学園祭同様、あくまでHTTが主体(わたし)として他者(あなた)に対して行うつもりのライブだったのであり、信代のアイディアを容れた教室での卒業ライブは、HTTを含む3-2が、主体(わたし)であり同時に他者(あなたたち)だということです。3-2全員が主体であり客体なのです
これは、卒業していく自分たちのために自分たちの手で行われる卒業ライブであり、ゆえにこそ、そのステージの準備から何から、3-2全体で取り組むわけです(正確にはモブ全員ではない、のですが…)
またこうしたライブの性格の違いから、唯たちが、部外者(卒業生ではない)である梓を誘うことに躊躇いがあった、という理解ができます
■ 「君」というクラスメイトに対して捧げられる詩
よって、ここでの「U&I」という曲もまた、そのように解釈されるべきものでしょう
3-2全員が主体であり客体とするこのライブにおいて、「I=わたし」は全員個々のことであり、また同時に「U=YOU=あなた」もそれ以外の全員の「わたし」のことであるということ、3-2の全ての個が他の個、全員に対して歌われている「U&I」であり、この時、この歌の詩はそのように理解されるべきです
だから、ここでの「U&I」はHTTが主体であり観客を客体として感謝の気持ちを伝達した学園祭ライブの時とは、まるで意味の違う歌ということができます
君が側にいることを当たり前に思ってた
こんな日々がずっとずっと続くんだと思ってたよ
この歌の詩はまさに、これから卒業して散っていく3-2が、互いが互いのために歌っている詩です。卒業ライブにおいて、HTTという存在は主体にとどまらず、3-2の一部でもある。だからこそ最後に唯はステージを飛び降りて客席に紛れるのでしょう
意味が変わっていても、この歌は成立している。つくづく、「U&I」という歌の懐の大きさを思います
■ 梓だけに捧げられるフレーズ
ただ、印象的な場面として、唯が梓にだけ歌うフレーズがあります
君の胸に届くかな 今は自信ないけれど
笑わないで どうか聞いて 思いを歌に込めたから
ここに込められた思いはもちろん、構想中の梓への歌のことであり、唯のその時の真情です
ですが上記の文脈から言うとむしろ、このフレーズを捧げることのできる、最も重要な存在だから、ということができます。3-2全員が主体であり客体とするこのライブにおいては、このフレーズを仲間に向けて歌うのはふさわしくない。歌に込めた思いは全員が持っているものだから、相手に伝わるかどうかを疑う詩は当てはまらないのです
このフレーズを捧げることのできる純然たる客体は、2年生の3人しかおらず、その中で最も重要な存在である梓にこそこのフレーズは捧げられるわけです
だからこのシーン、唯はこのフレーズを梓だけに向けて歌うのだ、ということができると思います
ちなみに印象的なことにこのシーン、ずっと腕を組んで仏頂面?で見ている巻上さんが一度瞬きをします
なお、3-2に憂と純を招き入れるのはいちごですが、いちごはs2e25での取材を通じて、憂、純、梓をまとめて「軽音部」と認識しています(s2e22参照)。よっていちごはふたりを軽音部のメンバーとしてこのHTTの卒業ライブの空間に招き入れているわけで、実はここでの憂と純は軽音部の一部ということができます
オカルト研は以前に記事にした通り、このライブを記録するための存在なのでしょう
■ さわちゃんのこと
余談ですが、この教室に招き入れられる教師ふたりのこと
これはおさらいになりますが、堀込先生がいう、「お前たちに比べれば可愛いもんだな」の意味は、以前に記事にしたと思うんですが、さわ子たちの卒業ライブが卒業への反抗であり過去への執着だった(さわ子のウィンドミルは過去向きの反時計回りの回転)のに対して、唯たちのこのライブが未来へ向かっていくための儀式としてのライブ(唯のウィンドミルは時計回り)だったから、であり、堀込先生が唯たちの真情を見ぬいたから、というのが自分の解釈です
つまり、さわちゃんはこの時点では唯たちに取り残されている。さわ子はライブの前、唯たちをふわふわの雛だと言いますが、実は唯たちのほうがずっと大人に近くて、自分たちが去っていく事実をちゃんと受け入れてこのライブをやっている。唯たちはこのライブを通じて、さわ子という先輩を越えていくのだと思います。しかし以前に記事にした通り、さわちゃんは寄せ書きという卒業証書をもらって、未熟な時代を終えて、子供たちを見送る側の「大人」、一人前の教師として認定されるのだと思います
今回はとりあえずこんなとこで。ああ。昨日に間に合わなかったwww
【映画読解】 75回 記録者と受け継ぐ者の物語
75回見ました。今回の感想というか考察というか、私見のもろもろは、前回の記事の補足・補完となるものです
■ 3年生組=記録者であること
ここ数回、特に注意して見ているのはカメラ、レコーダーの類の扱いについてです
これまでをおさらいすると、そもそもは、卒業ライブでのオカルト研のロゼッタストーンの持つ意味はなんなのか?、という疑問から始まっていて、まずロゼッタストーンは時代を越えて文字情報を伝えているアイテムなので、おそらくレコーダーなのであろう、という推察をたて、さらにオカルト研の背後にいるカメラを持っている和、そしてそのふたりと符牒を交わす唯を通じて、やはりロゼッタストーンはカメラ同様の記録装置であり、また唯もその目に仲間たちの演奏の姿を焼き付けていて、この三者は同じことをしている=記録者なのであろう、と結論したのが前回の記事です
で、今回の観劇では、唯は記録者だった。では他のメインキャラクター4人は、記録についてどう振舞っているのか?というところに注目してみました。具体的に言うと、記録においては作中頻繁に登場する「カメラ」がキーアイテムであろうというところから、他のキャラクターは、カメラを使っている場面が描かれていただろうか?というところに注目して観劇しました
※ここで補足ですが、OPの豆コンテを見ると、OPの唯のノートの枠がしぼんで場面が切り替わる演出は、カメラのシャッターをイメージしたものであるのがわかります。つまりカメラが何らかの役割を与えられたキーアイテムであるのは、勝手な思いつきでも考え過ぎでもなくて、山田監督がある程度意識していることなのは間違いないところです
結論から言うと、劇中、唯と梓だけが撮影姿が描かれていません。他の3人は全員カメラを使用する場面が描かれています
具体的に挙げていきます
唯:カムデンタウンでは自前のカメラで撮影しようとしていましたが、撮影シーンはありません
澪:自分のカメラを使って、一番多く撮影しています。空港で律と飛行機を撮りまくっています。ヒースローでも唯に言われるままに空や建物や英語の看板等の写真を撮りまくっています。ホテルに向かう車中からも街並みを撮っています。ロンドン2泊目では、真実の石ごっこを撮影してます。HTTマークの喫茶店で梓を撮影していたはずです。(ロンドン・アイ、市場でもおそらく撮影したでしょうが、撮影シーンはありません)
律:自分のカメラを使って、二番目に多く撮影しています。ロンドン2泊目、逆回転する時計のところで梓を撮影しているのは律です。警察官の前の澪たち4人を撮影しているのはそこにいない律と思われます。ヒースローに向かうタクシーの中で梓を撮影しています
※HTTマークの喫茶店と逆回転の時計の撮影は澪と律が逆だったかも?w 再度確認してみます
紬:ロンドン1泊目に、律のカメラを使って、制服姿の律を撮影しています
梓:OPで、唯のカメラを使って、先輩たちを撮影しようとしていますが、待たされています
この傾向からすると、唯についてはおそらく、上記した卒業ライブでのあの描写が、唯が記録者として描かれている劇中唯一のシーンでしょう。唯がカメラを使わないのは作為的な演出で、唯を、自分の心にその瞬間を焼き付けるキャラクターとして描きたいのだろうと思います。なぜならその描写は、s2e24で、唯が泣きじゃくる梓に自分たちが1年生の時の写真を惜しみなく渡した。その人物像と整合するからです。部屋のコルクボードにあるように、唯は写真を大切にしていますが、写真は象徴であるに過ぎず、その時間は彼女の心に共にあるものなのではないでしょうか
一方、カメラを使いまくる澪は、唯とは対照的に描かれていると言えます。シリーズにおける唯と澪の対比性については過去の記事で考察したり、過去twitterでも指摘したりしていますが(笑)、その文脈に合致します
被写体の傾向を見ると、澪は人物よりも風景を撮影していることが多いように思われますが、そこに理由があるのか、またどういう意味かは今のところなんとも言えませんが、情景、情感といったものへの指向性が強い澪の個性が描かれていると言うことはできると思います
律はまた、澪とは対照的に人物だけを撮影している、ということができるでしょう。律の仲間への気遣いのアンテナ、感受性が人一倍鋭いのは周知のことですが、この描写はその人物像に整合していると思います。りっちゃんは人間に関心が向く人物なのだ、ということもできるでしょう
紬は以前の記事で唯Mk2であると言いましたが(笑)、これは公式ガイドブックでも山田監督も同じようなことをいっているので公式設定ということでいいでしょうw というわけでムギがカメラを使っているのは劇中ただ一度だけです
ですが、TVシリーズとあわせてみると、ムギはs2e23で回し手紙を全部欲しいといってみたり、部室での会話を録音しようとしてみたりと、記録に対する執着心は人一倍強い人物であるように思われます。後述する通り、映画においても撮影記録に対する思い入れがあることが描かれています
しかしこうしてまとめてみると、劇中、澪、律、紬にカメラを使用したシーンがあり、唯は卒業ライブでのあの演出がそれに該当する、ということができ、3年生組は全員、記録者である、ということができるかと思います
■ 梓は被写体であり、価値を受け継ぐ者であること
では、カメラを使ったシーンが描かれていない梓は、先輩に対して何者であるか、というところで、この副題が結論なのですが、梓は価値を受け継ぐ者、として描かれているのだろう、と思われます
理由が大きくふたつ挙げられます
まず、梓は先輩たちの被写体であるということです。前項の記録行為において、唯、澪、律が梓を被写体にしています。ムギは?と思いましたね? ムギには、携帯で撮影した梓を見ているシーンがあります。よって紬にとっても梓は被写体で、つまり劇中、梓は一方的に、先輩たちの記録・記憶対象なのです
次に、前項で示した通り、OPで梓は先輩たちを撮影しようとして待たされています。ですが、s2e24で、また劇中でもワンカット描かれているように、唯から先輩たちが1年の時の写真(と、梓自身の写真)をもらっています。ここで象徴的に、梓は先輩たちが記録・記憶してきたものを先輩たちから譲り受けているのです
以前、s2e24を通して過去の記事で、自分は「天使にふれたよ!」は、唯たちが3年生の部活動で得た最高の価値である「絆」を梓に伝えるための歌だった、と総括し、あの最後の演奏は、大切な後輩への価値の伝達としての演奏だったと、そのように結論しました
ですが、こうして劇場版を通じてみると、このカメラ等による記録・記憶行為もまた、梓への価値の伝達手段としての扱いをされている、と指摘しなければなりません。おそらく、撮影という物質的な側面では澪が象徴的に担っており、卒業ライブでその瞬間を目に焼付け記憶していた唯は、精神的な側面を象徴する役割を担っているのではないかと思います(あくまで、演出面において唯と澪が対比的描写ということですが…)
いずれにせよ、写真においても歌においても(またそこに込められている思いにおいて)、梓は先輩たちから、先輩たちが大切にしてきた価値を受け継ぐ者、なのだろうと思います
まあ、結論としては過去の考察と同じなんですけどねw
■ 補足:映画の時制について
ええと、過去の記事では、s2e26と今回の劇場版の前後関係についてはっきりと結論を付けられなかったのですが、とりあえずs2e26との前後関係は確定しました。以下の通りです
s2e22:受験合格発表
劇場版:冒頭〜ホワイトボードに「鳥獣戯画」が描かれるまで
s2e26:留年未決定。ホワイトボードに「チョコやるよ/わはーいん」
劇場版:留年決定会議(冒頭から一週間ほど)
s2e23:卒業式前日。ホワイトボードに「チョコやるよ/わはーいん」が消去
根拠は、s2e26のホワイトボードです。これがs2e23と同じなので、その間に鳥獣戯画が書かれて消され、同じものが描き直されたとは考えにくいため、s2e26は劇場版で鳥獣戯画が描かれてから、ロンドン旅行を挟んで、卒業式前日までの間の出来事であることが確定します
また、s2e26が留年かどうかが確定する前の出来事であることから、映画冒頭の会話(一週間後に留年決定会議)からの一週間以内の出来事であることになります
つまり劇場版における
「卒業旅行先決定の日」〜「旅行当日」
この間に、留年決定会議があり、その以前にs2e26が入ることになります
■ 3年生組=記録者であること
ここ数回、特に注意して見ているのはカメラ、レコーダーの類の扱いについてです
これまでをおさらいすると、そもそもは、卒業ライブでのオカルト研のロゼッタストーンの持つ意味はなんなのか?、という疑問から始まっていて、まずロゼッタストーンは時代を越えて文字情報を伝えているアイテムなので、おそらくレコーダーなのであろう、という推察をたて、さらにオカルト研の背後にいるカメラを持っている和、そしてそのふたりと符牒を交わす唯を通じて、やはりロゼッタストーンはカメラ同様の記録装置であり、また唯もその目に仲間たちの演奏の姿を焼き付けていて、この三者は同じことをしている=記録者なのであろう、と結論したのが前回の記事です
で、今回の観劇では、唯は記録者だった。では他のメインキャラクター4人は、記録についてどう振舞っているのか?というところに注目してみました。具体的に言うと、記録においては作中頻繁に登場する「カメラ」がキーアイテムであろうというところから、他のキャラクターは、カメラを使っている場面が描かれていただろうか?というところに注目して観劇しました
※ここで補足ですが、OPの豆コンテを見ると、OPの唯のノートの枠がしぼんで場面が切り替わる演出は、カメラのシャッターをイメージしたものであるのがわかります。つまりカメラが何らかの役割を与えられたキーアイテムであるのは、勝手な思いつきでも考え過ぎでもなくて、山田監督がある程度意識していることなのは間違いないところです
結論から言うと、劇中、唯と梓だけが撮影姿が描かれていません。他の3人は全員カメラを使用する場面が描かれています
具体的に挙げていきます
唯:カムデンタウンでは自前のカメラで撮影しようとしていましたが、撮影シーンはありません
澪:自分のカメラを使って、一番多く撮影しています。空港で律と飛行機を撮りまくっています。ヒースローでも唯に言われるままに空や建物や英語の看板等の写真を撮りまくっています。ホテルに向かう車中からも街並みを撮っています。ロンドン2泊目では、真実の石ごっこを撮影してます。HTTマークの喫茶店で梓を撮影していたはずです。(ロンドン・アイ、市場でもおそらく撮影したでしょうが、撮影シーンはありません)
律:自分のカメラを使って、二番目に多く撮影しています。ロンドン2泊目、逆回転する時計のところで梓を撮影しているのは律です。警察官の前の澪たち4人を撮影しているのはそこにいない律と思われます。ヒースローに向かうタクシーの中で梓を撮影しています
※HTTマークの喫茶店と逆回転の時計の撮影は澪と律が逆だったかも?w 再度確認してみます
紬:ロンドン1泊目に、律のカメラを使って、制服姿の律を撮影しています
梓:OPで、唯のカメラを使って、先輩たちを撮影しようとしていますが、待たされています
この傾向からすると、唯についてはおそらく、上記した卒業ライブでのあの描写が、唯が記録者として描かれている劇中唯一のシーンでしょう。唯がカメラを使わないのは作為的な演出で、唯を、自分の心にその瞬間を焼き付けるキャラクターとして描きたいのだろうと思います。なぜならその描写は、s2e24で、唯が泣きじゃくる梓に自分たちが1年生の時の写真を惜しみなく渡した。その人物像と整合するからです。部屋のコルクボードにあるように、唯は写真を大切にしていますが、写真は象徴であるに過ぎず、その時間は彼女の心に共にあるものなのではないでしょうか
一方、カメラを使いまくる澪は、唯とは対照的に描かれていると言えます。シリーズにおける唯と澪の対比性については過去の記事で考察したり、過去twitterでも指摘したりしていますが(笑)、その文脈に合致します
被写体の傾向を見ると、澪は人物よりも風景を撮影していることが多いように思われますが、そこに理由があるのか、またどういう意味かは今のところなんとも言えませんが、情景、情感といったものへの指向性が強い澪の個性が描かれていると言うことはできると思います
律はまた、澪とは対照的に人物だけを撮影している、ということができるでしょう。律の仲間への気遣いのアンテナ、感受性が人一倍鋭いのは周知のことですが、この描写はその人物像に整合していると思います。りっちゃんは人間に関心が向く人物なのだ、ということもできるでしょう
紬は以前の記事で唯Mk2であると言いましたが(笑)、これは公式ガイドブックでも山田監督も同じようなことをいっているので公式設定ということでいいでしょうw というわけでムギがカメラを使っているのは劇中ただ一度だけです
ですが、TVシリーズとあわせてみると、ムギはs2e23で回し手紙を全部欲しいといってみたり、部室での会話を録音しようとしてみたりと、記録に対する執着心は人一倍強い人物であるように思われます。後述する通り、映画においても撮影記録に対する思い入れがあることが描かれています
しかしこうしてまとめてみると、劇中、澪、律、紬にカメラを使用したシーンがあり、唯は卒業ライブでのあの演出がそれに該当する、ということができ、3年生組は全員、記録者である、ということができるかと思います
■ 梓は被写体であり、価値を受け継ぐ者であること
では、カメラを使ったシーンが描かれていない梓は、先輩に対して何者であるか、というところで、この副題が結論なのですが、梓は価値を受け継ぐ者、として描かれているのだろう、と思われます
理由が大きくふたつ挙げられます
まず、梓は先輩たちの被写体であるということです。前項の記録行為において、唯、澪、律が梓を被写体にしています。ムギは?と思いましたね? ムギには、携帯で撮影した梓を見ているシーンがあります。よって紬にとっても梓は被写体で、つまり劇中、梓は一方的に、先輩たちの記録・記憶対象なのです
次に、前項で示した通り、OPで梓は先輩たちを撮影しようとして待たされています。ですが、s2e24で、また劇中でもワンカット描かれているように、唯から先輩たちが1年の時の写真(と、梓自身の写真)をもらっています。ここで象徴的に、梓は先輩たちが記録・記憶してきたものを先輩たちから譲り受けているのです
以前、s2e24を通して過去の記事で、自分は「天使にふれたよ!」は、唯たちが3年生の部活動で得た最高の価値である「絆」を梓に伝えるための歌だった、と総括し、あの最後の演奏は、大切な後輩への価値の伝達としての演奏だったと、そのように結論しました
ですが、こうして劇場版を通じてみると、このカメラ等による記録・記憶行為もまた、梓への価値の伝達手段としての扱いをされている、と指摘しなければなりません。おそらく、撮影という物質的な側面では澪が象徴的に担っており、卒業ライブでその瞬間を目に焼付け記憶していた唯は、精神的な側面を象徴する役割を担っているのではないかと思います(あくまで、演出面において唯と澪が対比的描写ということですが…)
いずれにせよ、写真においても歌においても(またそこに込められている思いにおいて)、梓は先輩たちから、先輩たちが大切にしてきた価値を受け継ぐ者、なのだろうと思います
まあ、結論としては過去の考察と同じなんですけどねw
■ 補足:映画の時制について
ええと、過去の記事では、s2e26と今回の劇場版の前後関係についてはっきりと結論を付けられなかったのですが、とりあえずs2e26との前後関係は確定しました。以下の通りです
s2e22:受験合格発表
劇場版:冒頭〜ホワイトボードに「鳥獣戯画」が描かれるまで
s2e26:留年未決定。ホワイトボードに「チョコやるよ/わはーいん」
劇場版:留年決定会議(冒頭から一週間ほど)
s2e23:卒業式前日。ホワイトボードに「チョコやるよ/わはーいん」が消去
根拠は、s2e26のホワイトボードです。これがs2e23と同じなので、その間に鳥獣戯画が書かれて消され、同じものが描き直されたとは考えにくいため、s2e26は劇場版で鳥獣戯画が描かれてから、ロンドン旅行を挟んで、卒業式前日までの間の出来事であることが確定します
また、s2e26が留年かどうかが確定する前の出来事であることから、映画冒頭の会話(一週間後に留年決定会議)からの一週間以内の出来事であることになります
つまり劇場版における
「卒業旅行先決定の日」〜「旅行当日」
この間に、留年決定会議があり、その以前にs2e26が入ることになります
【映画読解】 74回 卒業ライブとラストシーンについて考察補足
74回見ました。今回は、59回見た時の感想と、62回見た時の感想の記事のそれぞれ補足を2点です
■ ラストシークエンスが、唯たちの3年間の象徴であること
<59回感想:「赤と青と横断歩道と橋の途中」補足>
まずおさらいですが、作中に登場する「赤色」「青色」にはリボンの色から、それぞれ「2年生・梓」「3年生・唯たち」という暗喩があり、また「止まる/モラトリアム」「進む/前向き、未来志向」という暗喩があると考えられます
後者は作中登場する踏切や信号機から意味付けられるもので、決定的な論拠となるのは、冒頭の赤信号で止まる唯とムギ、卒業ライブの後で赤信号が青信号に変わって唯とムギが横断歩道を渡る、というふたつのシーンです。前者の段階では、梓へのプレゼントの内容すら決まっておらず、唯たち3年生4人には卒業までに終えるべきいくつかの課題がありました。だから「唯とムギは赤信号で足止めされている」。ですが、後者の卒業ライブを終えた後のシーンでは、彼女たちに残る課題は梓に送る歌を完成させることだけであり、それもすでに目処が付いている。よって「唯とムギが渡る横断歩道の赤信号が青信号に変わる」わけです
(なお、ここで律と澪ではなく、唯とムギがピックアップされているのは、ふたりがHTTの思想的な主軸、柱となる存在だからだと思われます。それは、3-2の教室のシーンにおいて、卒業旅行と卒業ライブについて語るために4人が集まるのがムギの机であり、梓への歌のために集まるのが唯の机であることに象徴されます。HTTの楽しもうとする活動の中心には、常にブレないムギの存在があり、梓へのアクションの中心には梓を誰よりもかわいがっている唯の存在があるからです)
これを踏まえた上での歩く4人の足のアップから入るラストのシークエンス。彼女たちが渡っていく橋の手前にまさに横断歩道があります。唯とムギのシーンに出てきた横断歩道の変化を踏まえれば、彼女たち4人が高校生活で終わらせるべき全ての課題を終えた今、このラストシークエンスの横断歩道は、決して赤信号ではなく、青信号であるわけです。唯が後ろ向きに横断歩道を渡っていても全然不安ではないのですw
ここまでが過去の記事の大雑把なまとめ
で、あのシークエンスはラストなので浸ってしまい、いつも思考停止してみてしまうのですが、今回にしてようやく、彼女たちが横断歩道にたどり着くまでの道に、道を横切る路上の縁石の線が3本出てくることに気づきました。73回目の時に、「もしかしてこれ3本でてくるんじゃね?」と思って74回目を見たら、まさにそうでしたw もしかしたら、最後のシークエンスで、彼女たちの3年間と卒業(横断歩道)、次の場所への飛躍(橋の上)を象徴させたのかもしれません
■ 卒業ライブ:唯もまた記録者であろうとしたこと
<「62回目 今日の気づき」補足>
まずおさらいですが、教室での卒業ライブに、オカルト研が持ち込むロゼッタストーンについては、さら過去の記事でオカルト研にとっての呪術的意味合いとして、また制作側の意図するところとして、卒業ライブを石版に焼き付けている、レコーダー、カメラとしての意味があるのではないか、と推察しました
で、ここからが今回の記事ですが
あのライブで、U&Iの最後の伴奏になったとき、唯がステージの下から視線をステージ上の仲間たちに向けていると思われるシーンが入ります。唯のアップなので目の動きと表情からそう推察するほかはないのですが、あの演出について、自分はきっとあれは唯も記録者として、カメラのように仲間たちの卒業ライブの姿を目に焼き付けているんだと思っていました
で、今回、改めてあのシーンの流れを見ると、その正に直前、唯はオカルト研とその後ろにいる和に視線を送っていて、指で天を指す符牒をしています。これはこれまでの推察、仮説を決定づけるアクションと言えると思います
なぜならあの時、和は唯のカメラを手にして、卒業ライブの姿を記録しています。オカルト研のロゼッタストーンもきっと同じです。彼女たちと同じ符牒した唯が、ステージ上の仲間たちを見る―となれば、和、オカルト研、唯の3者は同じ事をしているのだと考えるべきです
つまり、この3者はすべて、彼女たちの青春時代の記録者なのでしょう
しかし、最後に唯は記録者ではなく、HTTに戻る。それがあのムギを誘ったジャンピングなのでしょう
客観者ではなく主体であり当事者である。それがあくまで平沢唯の立ち位置ということなのだろうと思います
今回はこんなところで
■ 追記
しかし、するとオカルト研が天を指差す先の「宇宙と交信」とは彼女たちを記録し、客観できる存在との交信ということになりますかねえ…
■ ラストシークエンスが、唯たちの3年間の象徴であること
<59回感想:「赤と青と横断歩道と橋の途中」補足>
まずおさらいですが、作中に登場する「赤色」「青色」にはリボンの色から、それぞれ「2年生・梓」「3年生・唯たち」という暗喩があり、また「止まる/モラトリアム」「進む/前向き、未来志向」という暗喩があると考えられます
後者は作中登場する踏切や信号機から意味付けられるもので、決定的な論拠となるのは、冒頭の赤信号で止まる唯とムギ、卒業ライブの後で赤信号が青信号に変わって唯とムギが横断歩道を渡る、というふたつのシーンです。前者の段階では、梓へのプレゼントの内容すら決まっておらず、唯たち3年生4人には卒業までに終えるべきいくつかの課題がありました。だから「唯とムギは赤信号で足止めされている」。ですが、後者の卒業ライブを終えた後のシーンでは、彼女たちに残る課題は梓に送る歌を完成させることだけであり、それもすでに目処が付いている。よって「唯とムギが渡る横断歩道の赤信号が青信号に変わる」わけです
(なお、ここで律と澪ではなく、唯とムギがピックアップされているのは、ふたりがHTTの思想的な主軸、柱となる存在だからだと思われます。それは、3-2の教室のシーンにおいて、卒業旅行と卒業ライブについて語るために4人が集まるのがムギの机であり、梓への歌のために集まるのが唯の机であることに象徴されます。HTTの楽しもうとする活動の中心には、常にブレないムギの存在があり、梓へのアクションの中心には梓を誰よりもかわいがっている唯の存在があるからです)
これを踏まえた上での歩く4人の足のアップから入るラストのシークエンス。彼女たちが渡っていく橋の手前にまさに横断歩道があります。唯とムギのシーンに出てきた横断歩道の変化を踏まえれば、彼女たち4人が高校生活で終わらせるべき全ての課題を終えた今、このラストシークエンスの横断歩道は、決して赤信号ではなく、青信号であるわけです。唯が後ろ向きに横断歩道を渡っていても全然不安ではないのですw
ここまでが過去の記事の大雑把なまとめ
で、あのシークエンスはラストなので浸ってしまい、いつも思考停止してみてしまうのですが、今回にしてようやく、彼女たちが横断歩道にたどり着くまでの道に、道を横切る路上の縁石の線が3本出てくることに気づきました。73回目の時に、「もしかしてこれ3本でてくるんじゃね?」と思って74回目を見たら、まさにそうでしたw もしかしたら、最後のシークエンスで、彼女たちの3年間と卒業(横断歩道)、次の場所への飛躍(橋の上)を象徴させたのかもしれません
■ 卒業ライブ:唯もまた記録者であろうとしたこと
<「62回目 今日の気づき」補足>
まずおさらいですが、教室での卒業ライブに、オカルト研が持ち込むロゼッタストーンについては、さら過去の記事でオカルト研にとっての呪術的意味合いとして、また制作側の意図するところとして、卒業ライブを石版に焼き付けている、レコーダー、カメラとしての意味があるのではないか、と推察しました
で、ここからが今回の記事ですが
あのライブで、U&Iの最後の伴奏になったとき、唯がステージの下から視線をステージ上の仲間たちに向けていると思われるシーンが入ります。唯のアップなので目の動きと表情からそう推察するほかはないのですが、あの演出について、自分はきっとあれは唯も記録者として、カメラのように仲間たちの卒業ライブの姿を目に焼き付けているんだと思っていました
で、今回、改めてあのシーンの流れを見ると、その正に直前、唯はオカルト研とその後ろにいる和に視線を送っていて、指で天を指す符牒をしています。これはこれまでの推察、仮説を決定づけるアクションと言えると思います
なぜならあの時、和は唯のカメラを手にして、卒業ライブの姿を記録しています。オカルト研のロゼッタストーンもきっと同じです。彼女たちと同じ符牒した唯が、ステージ上の仲間たちを見る―となれば、和、オカルト研、唯の3者は同じ事をしているのだと考えるべきです
つまり、この3者はすべて、彼女たちの青春時代の記録者なのでしょう
しかし、最後に唯は記録者ではなく、HTTに戻る。それがあのムギを誘ったジャンピングなのでしょう
客観者ではなく主体であり当事者である。それがあくまで平沢唯の立ち位置ということなのだろうと思います
今回はこんなところで
■ 追記
しかし、するとオカルト研が天を指差す先の「宇宙と交信」とは彼女たちを記録し、客観できる存在との交信ということになりますかねえ…
【映画読解】 67回:梓の夢と「自慢の憂」
えー、新宿ピカデリー最終で、鑑賞回数は67回になりました。本当はここで切りの良い72回に持って行きたかったんですけどもw まーいいでしょう…
今回は小ネタで、梓がロンドン一泊目に見る夢についてです
■ おさらい:417号室の意味
まずは、あまり今回の話に関わってはきませんが、417号室についてのおさらいから
唯たち5人が宿泊するホテルibisアールズコートの部屋は417号室。この情報は、作中ただ1カット、律たちが部屋にはいり、唯が返事をした後、梓が「私もあっちで」唯「あずにゃんはこっちでしょ」というシーンにしか出ません
「17」という数字が梓を象徴するマジックナンバーであることは、入国審査のシーン、梓「イエス、アイアムセブンティーン」のセリフと、そのゲートが17番であることによって提示されています。よって、「417」という数字はおのずから「4」と「17」に分解でき、この作品は一貫して、梓と先輩たちの関係性を描いていますから、「4」は4人の先輩を意味していることになります。つまり「417号室」は、「梓と4人の先輩の部屋」という寓意と解釈できるわけです
ロンドン旅行が過去への旅の暗喩であることは飛行機の会話から推察でき、ホテルもまた「ibis」=鳥のトキ、転じて「時」のひっかけであるにもかかわらず、417号室には、いずれの部屋にもホテルにあるべき「時計」がありません。時計は教室、駅、成田空港、ロンドン市街、ビックベン、唯の部屋、旅行会社、等々多くの場面に登場しています。ホテル以外に時計のない最も重要な場所は、軽音部部室です。ここから417号室がロンドンにおける部室の役目を与えられていることが洞察できます。またこれを裏付けるように、ホテルの部屋のBGMはロンドンにおける「Have some tea?」をイメージするものとして発注されています
つまり、417号室はロンドンという過去への旅における軽音部部室であり、時間を越えて普遍的な彼女たちの居場所(もしくは時計がない=時間が存在しない場所)として設定されているわけです
さらにいうと、417号室はコネクションルームですが、部室の役目を与えられているのは律たち3人の部屋です
これはまず律、澪、紬という現軽音部創設メンバーの宿泊場所であること、彼女たちが桜高の学生服を着てはしゃいでいること、そして決定的な情報として、壁紙の色が先輩たちの学生服のリボンと同じ青であること、から推察できます。つまりここは先輩たちの空間「4」であり、部室の象徴です
一方、梓と唯の部屋の壁紙の色は梓のイメージカラーである緑です。このことから、梓と唯の部屋は「17」である梓の空間、内面を象徴するものと考えられます。ここに唯が泊まっていることは、梓にとって唯がとりわけ大切な人であることを暗喩していると推察されます
ここまでが417号室についての、これまでの読解の総ざらいです
■ 梓のいる場所は憂の座席
これまで、梓のみる夢は「梓が将来的に唯との関係性を見失う不安の裏返し」と解釈してきました。その解釈は変わりがありません
ですが、ここ数回、気になっていたのは、梓が座っている場所は2-1における梓の座席ではなく、憂の座席であることです。そう、2-1において梓の座席は、廊下側の窓際です。ですが夢で梓が座っているのは憂の座席なのです
そもそもあの夢の世界には梓と唯以外は登場しません。部室には5人分の紅茶と青いリボンをした大きなケーキがあります。ドラムはありますがりっちゃんはいません。部室にいるのは唯と梓だけです。前項で上記したように、梓の部屋が梓の内面を象徴するものであるなら、同泊している唯だけが梓の夢=内面世界に登場するのは必然といえますが、では教室で梓が憂のポジションに居ることをどう理解すればいいんでしょうか
梓は憂に成り代わりたいと思ってるんでしょうか? それとも憂のように唯を愛しているということでしょうか?
■ 「自慢の憂だよ」…概念化した"憂”
で、解釈の手がかりになったのは、夢を見るその前のシーンです
そう、夕食に困っていた唯は、自分のトランクに憂が大量に日本食を詰め込んでいたことを思い出します。そして律たちの部屋でそのお披露目?となったわけです。一同大喜びw この時、全員が憂の存在を意識化しています。梓もです。その直後、唯のドライヤーにトラブルがあってこの会話は途切れますが、梓が憂を思い出すきっかけはまずここにあったわけです
ここで気になるのは見出しにもしましたが、唯のセリフ 「自慢の憂だよ」です。引っかかる言い方でした。普通は「自慢の妹だよ」というところです。まあ唯だからなあ…という気がしてさらっとスルーしてしまうところなのですが…というかスルーしてきたのですが、やはりひっかかる
でもこれが梓の夢とリンクしていると解釈すれば、このセリフがこの言い方であった理由がわかります
つまり唯は憂の存在を概念化した言い方をし、梓はその唯の言葉を介して憂を概念化した、そして梓は、自分も唯にとっての「自慢の憂」、つまり自分も唯にとっての特別な存在でありたいという気持ちが、梓をして、夢の中で自分の存在を憂のポジションにつかせたのではないか、と推察できます
そして、更に細かく見ると、この時の会話で梓は憂の配慮に感心しています。つまり梓は憂に自分は及ばないと思っている
だから上記は、「自分も唯にとっての特別な存在でありたい」というよりは「自分も唯にとっての特別な存在になりたい」といった方が適切なのではないかと推察します。梓にとっては自分が唯にとっての"自慢の憂"であることは「憧れ」で、自分にその自信はなく、不安なのだろうと思います
というわけで、またなんかひっかかっていたところがちょっとわかった感じなので、まとめておきました
今回は小ネタで、梓がロンドン一泊目に見る夢についてです
■ おさらい:417号室の意味
まずは、あまり今回の話に関わってはきませんが、417号室についてのおさらいから
唯たち5人が宿泊するホテルibisアールズコートの部屋は417号室。この情報は、作中ただ1カット、律たちが部屋にはいり、唯が返事をした後、梓が「私もあっちで」唯「あずにゃんはこっちでしょ」というシーンにしか出ません
「17」という数字が梓を象徴するマジックナンバーであることは、入国審査のシーン、梓「イエス、アイアムセブンティーン」のセリフと、そのゲートが17番であることによって提示されています。よって、「417」という数字はおのずから「4」と「17」に分解でき、この作品は一貫して、梓と先輩たちの関係性を描いていますから、「4」は4人の先輩を意味していることになります。つまり「417号室」は、「梓と4人の先輩の部屋」という寓意と解釈できるわけです
ロンドン旅行が過去への旅の暗喩であることは飛行機の会話から推察でき、ホテルもまた「ibis」=鳥のトキ、転じて「時」のひっかけであるにもかかわらず、417号室には、いずれの部屋にもホテルにあるべき「時計」がありません。時計は教室、駅、成田空港、ロンドン市街、ビックベン、唯の部屋、旅行会社、等々多くの場面に登場しています。ホテル以外に時計のない最も重要な場所は、軽音部部室です。ここから417号室がロンドンにおける部室の役目を与えられていることが洞察できます。またこれを裏付けるように、ホテルの部屋のBGMはロンドンにおける「Have some tea?」をイメージするものとして発注されています
つまり、417号室はロンドンという過去への旅における軽音部部室であり、時間を越えて普遍的な彼女たちの居場所(もしくは時計がない=時間が存在しない場所)として設定されているわけです
さらにいうと、417号室はコネクションルームですが、部室の役目を与えられているのは律たち3人の部屋です
これはまず律、澪、紬という現軽音部創設メンバーの宿泊場所であること、彼女たちが桜高の学生服を着てはしゃいでいること、そして決定的な情報として、壁紙の色が先輩たちの学生服のリボンと同じ青であること、から推察できます。つまりここは先輩たちの空間「4」であり、部室の象徴です
一方、梓と唯の部屋の壁紙の色は梓のイメージカラーである緑です。このことから、梓と唯の部屋は「17」である梓の空間、内面を象徴するものと考えられます。ここに唯が泊まっていることは、梓にとって唯がとりわけ大切な人であることを暗喩していると推察されます
ここまでが417号室についての、これまでの読解の総ざらいです
■ 梓のいる場所は憂の座席
これまで、梓のみる夢は「梓が将来的に唯との関係性を見失う不安の裏返し」と解釈してきました。その解釈は変わりがありません
ですが、ここ数回、気になっていたのは、梓が座っている場所は2-1における梓の座席ではなく、憂の座席であることです。そう、2-1において梓の座席は、廊下側の窓際です。ですが夢で梓が座っているのは憂の座席なのです
そもそもあの夢の世界には梓と唯以外は登場しません。部室には5人分の紅茶と青いリボンをした大きなケーキがあります。ドラムはありますがりっちゃんはいません。部室にいるのは唯と梓だけです。前項で上記したように、梓の部屋が梓の内面を象徴するものであるなら、同泊している唯だけが梓の夢=内面世界に登場するのは必然といえますが、では教室で梓が憂のポジションに居ることをどう理解すればいいんでしょうか
梓は憂に成り代わりたいと思ってるんでしょうか? それとも憂のように唯を愛しているということでしょうか?
■ 「自慢の憂だよ」…概念化した"憂”
で、解釈の手がかりになったのは、夢を見るその前のシーンです
そう、夕食に困っていた唯は、自分のトランクに憂が大量に日本食を詰め込んでいたことを思い出します。そして律たちの部屋でそのお披露目?となったわけです。一同大喜びw この時、全員が憂の存在を意識化しています。梓もです。その直後、唯のドライヤーにトラブルがあってこの会話は途切れますが、梓が憂を思い出すきっかけはまずここにあったわけです
ここで気になるのは見出しにもしましたが、唯のセリフ 「自慢の憂だよ」です。引っかかる言い方でした。普通は「自慢の妹だよ」というところです。まあ唯だからなあ…という気がしてさらっとスルーしてしまうところなのですが…というかスルーしてきたのですが、やはりひっかかる
でもこれが梓の夢とリンクしていると解釈すれば、このセリフがこの言い方であった理由がわかります
つまり唯は憂の存在を概念化した言い方をし、梓はその唯の言葉を介して憂を概念化した、そして梓は、自分も唯にとっての「自慢の憂」、つまり自分も唯にとっての特別な存在でありたいという気持ちが、梓をして、夢の中で自分の存在を憂のポジションにつかせたのではないか、と推察できます
そして、更に細かく見ると、この時の会話で梓は憂の配慮に感心しています。つまり梓は憂に自分は及ばないと思っている
だから上記は、「自分も唯にとっての特別な存在でありたい」というよりは「自分も唯にとっての特別な存在になりたい」といった方が適切なのではないかと推察します。梓にとっては自分が唯にとっての"自慢の憂"であることは「憧れ」で、自分にその自信はなく、不安なのだろうと思います
というわけで、またなんかひっかかっていたところがちょっとわかった感じなので、まとめておきました
【映画読解】 OP読解の補足・更改
65回見ました。OPについては、豆絵コンテも見ることができたので再度読解をしておこうと思います
過去のOP読解記事はこちら
全体の解釈としては、上記リンク記事のものと変わりません。端的に言えば、OPの主要なメッセージは、この物語が前向きな物語であること、そして繰り返す出来事の物語であること、を提示することだと思います
今回の記事で訂正更新するのは、以下の情報の解釈と理解です
■ それぞれの最初について
中盤に挿入される1)律、澪、紬が部室に入って、律が振り返って腕を振り上げ一本指を突き上げるシーン 2)澪と紬が座っているところに律が唯を連れて入室してくるシーン 3)律が飛びつき梓が転ぶシーンの3つは、それぞれのこの部室への最初の入室シーンであることが絵コンテから確定しました
ただ映画を見る限りではわからなかったのは1)だと思います。というのは1)はs1e01中では一切描かれていない場面なので、推測の手がかりがないのでw ですから2)、3)については1)に続いて、それぞれ唯、梓の最初の入室シーンということです。「いちばんいっぱい」ですねw
■ カメラを持つ梓、ギターを抱える梓とこのシーンの解釈
終盤に挿入される、1)身なりを整える4人の先輩と、後ろでカメラをもって佇む梓のシーン 2)けんけんぱをして、梓がギターを抱いているシーン これですが、作中時制が確定しました
1)は背後のホワイトボードの落書きから、s2e01後半〜s2e02の掃除前までの間。2)は服装とホワイトボードから、s2e06前後の時期(梅雨時)です。これまで1)がいまいちわからなかったのですが、BD見返してわかりました
で、自分は過去のOPの解釈において、なぜs2e06が挿入シーンに選ばれているのかわからない、と書いたんですが、BDを見返したことと、1)がわかったことで、これがなんとなく解釈出来ました
s2e01〜02の頃、梓は何を悩んでいたか。新入部員がいないことを悩んでいました
s2e06の前のs2e05で、梓の先輩がいない寂しさが梅雨によって描写され、それが憂、純とのセッションによって晴れるという演出がありました
なので、やはりこれらは梓が持っている彼女だけの将来への悩み、孤立感を描写するための挿入シーンだったのだろうと思います。また、そう解釈すると本編の物語とつながります
けんけんぱについてですが、おそらく意味はない…と思います。こじつけることは可能ですが、やめておきますw
過去のOP読解記事はこちら
全体の解釈としては、上記リンク記事のものと変わりません。端的に言えば、OPの主要なメッセージは、この物語が前向きな物語であること、そして繰り返す出来事の物語であること、を提示することだと思います
今回の記事で訂正更新するのは、以下の情報の解釈と理解です
■ それぞれの最初について
中盤に挿入される1)律、澪、紬が部室に入って、律が振り返って腕を振り上げ一本指を突き上げるシーン 2)澪と紬が座っているところに律が唯を連れて入室してくるシーン 3)律が飛びつき梓が転ぶシーンの3つは、それぞれのこの部室への最初の入室シーンであることが絵コンテから確定しました
ただ映画を見る限りではわからなかったのは1)だと思います。というのは1)はs1e01中では一切描かれていない場面なので、推測の手がかりがないのでw ですから2)、3)については1)に続いて、それぞれ唯、梓の最初の入室シーンということです。「いちばんいっぱい」ですねw
■ カメラを持つ梓、ギターを抱える梓とこのシーンの解釈
終盤に挿入される、1)身なりを整える4人の先輩と、後ろでカメラをもって佇む梓のシーン 2)けんけんぱをして、梓がギターを抱いているシーン これですが、作中時制が確定しました
1)は背後のホワイトボードの落書きから、s2e01後半〜s2e02の掃除前までの間。2)は服装とホワイトボードから、s2e06前後の時期(梅雨時)です。これまで1)がいまいちわからなかったのですが、BD見返してわかりました
で、自分は過去のOPの解釈において、なぜs2e06が挿入シーンに選ばれているのかわからない、と書いたんですが、BDを見返したことと、1)がわかったことで、これがなんとなく解釈出来ました
s2e01〜02の頃、梓は何を悩んでいたか。新入部員がいないことを悩んでいました
s2e06の前のs2e05で、梓の先輩がいない寂しさが梅雨によって描写され、それが憂、純とのセッションによって晴れるという演出がありました
なので、やはりこれらは梓が持っている彼女だけの将来への悩み、孤立感を描写するための挿入シーンだったのだろうと思います。また、そう解釈すると本編の物語とつながります
けんけんぱについてですが、おそらく意味はない…と思います。こじつけることは可能ですが、やめておきますw