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「けいおん!」総括~第一期を通じて

けいおんという作品を現時点で改めて総括してみる。
あくまで自分なりのもので、結論とか絶対とかいうものではないことはお断りして。

この作品の魅力についてはいろんな断面からアプローチできると思うのだけれど、自分は3つのポイントからまとめてみようと思う。
「けいおん!」という作品の魅力を端的にいうならば、それは「可愛い」「追体験」「キラキラ」ということにまとまる。

■「可愛いさ」という萌え~記号化の否定


この作品が視聴者の萌え衝動を刺激することによって訴求することを狙った、いわゆる「萌えアニメ」であることに異論の余地はない。

そもそも「萌え」という概念が何を意味するのかはなんとなく共有されるイメージとしてあるが、それを「こう」と具体的かつ的確に説明することはなかなか難しい。大雑把にいうなら、関心の対象としてあるキャラクターや事象に対して沸き起こってくる好意、好奇、欲望などの衝動の総称ということになろうか。
かつて、その引き金、いわば「萌えポイント」は雑多にあるものだったし、なにをもって引き金とするかは主導権はあくまで視聴者にあった。言い換えるなら、視聴者が勝手に萌えポイントを見つけて勝手に萌えていたのだ。

それがいつしか簡素化され象徴化され、製作側の都合のいいように定型化、記号化されるようになり、特定の信号によって人為的に引き起こされるものになっていったのが、ここ20年のキャラクターアニメの歴史だ。「萌え」という言葉が生まれたとき、すでにそれ以前にあった自由な衝動はすでに枠を嵌められ、製作者側のツールになる運命だったのかも知れない。
その「萌え衝動」を触発する信号として、とくに支配的になった表現はセックスアピールだった。
この10年の萌えアニメは、性的信号と不可分ではないといってもいい。

「けいおん!」の特異な点、そして魅力的な点は、このいつしか形式化され記号化された萌え、またセックスアピール=萌えという時代の流れに対して、明確なアンチテーゼを示した点にあると思う。

山田監督が言うように、この作品は記号化を極力否定し、自然体の青春ものとして少女たちの学生生活コメディを描いた。そこから生まれた魅力は、キャラクターが在るが儘に持っている「可愛さ」であり、その訴求力が多くの視聴者を捉えたのだ。
それは言い方を変えるなら「萌え」という言葉以前にあった萌え衝動を回復することと同義であったように思うのだ。
大袈裟に言うなら、「けいおん!」は固定化しつつあった「萌え」という概念を再解放したといえるだろう。

自分の考えでは、もし後世この作品のフォロワーが生まれたなら、この作品はあまたの萌えアニメの潮流に、ひとつの新たな澪標を打ち立てた記念碑的作品として、アニメ史に銘記されるのではないかと思っている。

■追体験の錯覚~機微の観察力

もうひとつの「けいおん!」の大きな魅力は、青春時代や生活の体験の既視感、追体験を錯覚させ想起させる点にある。
新しい体験や出会いに飛び込んで行くときの不安と高揚、気まぐれな喜びや感動、その時々の場面の相関や反応が、視聴者の似たような経験を上手くくすぐって、「あるある!」「わかるわかる」という共感を与える力を持っている。
この20年、学園モノや日常もののアニメが他に作られなかったわけでもないのに、この作品の「追体験力」は突出して強烈で鮮烈だ。

その鍵のひとつが記号化の否定であることは間違いないが、もうひとつは間違いなく脚本家、そして監督の観察力にあると思う。

激動があるドラマを描くのは容易だ。誰でもそれなりに引き込む話を作ることができる。
だが、なにもない日常を描くことは難しい。なぜならそれは、多くの人が何気なく通り過ぎて行く場面を―「なにもない」と思っている場面を描かなければならないからだ。
実は、日常は「なにもない」のではない。人は日常生活で様々な場面に遭遇している。様々なシチュエーションを与えられ、どう感じるか、感じるか、どうふるまうか、どんな表情になりどんなことをいうか―日常生活にもそういった機微が「ある」。
それをしっかり認識し、観察しているクリエイターだけが日常を描けるのだ。

先に「錯覚」といったが、「けいおん!」に感じる追体験は錯覚だ。
視聴者の誰もがギターをやっているわけでもないし、部活でケーキを食べてだべりまくっていたわけでもないだろう。視聴者は実はそんな体験はしていない。していないが、似たような場面、似たような脈絡、似たような相関の中で、似たような機微を―人間の感性に共通する機微を―体験しているのだ。
そうした機微をきちんと描写しているからこそ視聴者は共感し、追体験の幻影を見る。

これは、山田監督が当時の経験、体験をしっかり観察し、それをそのまま作品中の演出や展開に投影しているからだろうと思う。監督個人の観察眼と感性によるところが大きいのではないだろうか。
おそらくこの作品は山田監督以外では同じように作ることはできないだろう。

■キラキラ~青春ということ

そしてこの作品の大きな魅力は煌めいていることだ。
これは抽象的で主観的な話なのだが、たしかに煌めいている。
なにが煌めいているのか、それはなんとも言葉にしにくいのだが、強いて言うなら「生きている」ということになろうか。
それは彼女たちの感情の豊かさであり、感受性の繊細ささであり、その瞬間の印象の鮮烈さだ。記号化の否定、機微の描写、そうしたものによって作り上げられたキャラクターの描写が生命を与えているのだろう。
そうして描かれたものがつまるところ「青春」だといえる。「けいおん!」は監督がいうように、「青春アニメ」なのだ。

さらに重要なことは、監督・クリエイターの目線がキャラクターたちよりやや高いということだ。
それが最も明確に描かれたのは第4話の花火で演奏する唯のシーンだろう。今を楽しそうに演奏する唯「また武道館で」という紬と律。本人たちにその言葉に裏はない。ただ赤心でそう思っている。だが、武道館に立つ、ということはついに叶わぬ夢であるかもしれない、というマクロの視点がそこには確かにあった。
しかし叶わぬ夢であったとしても、この瞬間が彼女たちの記憶に残るだろうことを、視聴者は確信できた。
自分はその場面に、クリエイターの神の温かな視線を感じたものだ。
クリエイターの視線がやや高いこと、やや先まで俯瞰していること。そのことが一層、彼女たちの時間が得難い、ただその時だけの大切なものであることを浮かび上がらせているように思う。それはまた「青春」の貴重さでもあるのだ。

70年代、スポ根ものを中心に多くの青春アニメがあった。その多くは訓示的な色彩を帯びて、人生の困難を克己していく主人公を通じて青春をかくあるべしと「押し付けて」いた。
だが、現実の青春はそんなものではない。10代の若者は誰もがチャンピオンを目指したり、その道程で挫折する者ばかりではない。多くの若者は日々を無目的に、あるいは目的をぼんやりと抱きながら、日々を漫然と、あるいは刹那的に、あるいは快楽的に生きている。
そんな青春は、チャンピオンを目指す者と比べて煌めいてはいないのだろうか? そんなことはないはずなのだ。
そういう青春のリアリティをまったく肯定的に描いた青春ものはおそらく「けいおん!」が唯一で最初ではないだろうか。

ただ日々をおいしいお菓子を食べて、楽しいお喋りをして、思い出したようにバンドで演奏して。
そんな青春をひねくれるのでもなく、自虐的に開き直るのでも諦観するのでもなく、それがそのままに、確かに煌めく貴重な青春だということを描いた。
そこにこの作品が「青春もの」としてもまた画期的な作品として評価されるべき理由があると思う。


自分の総括はこんなところなのだが、もしこの3点に加えて、もうひとつだけ加えるとすれば、それはやはり「愛情」だろう。
クリエイターが本当にキャラクターを愛している。スタッフもキャストもものすごく愛している。その気持ちが作品全体から伝わってくる稀有な作品だと思う。
この作品全体にある優しさ、愛しさも、製作者が注ぐ愛情に発しているように思うのだ。
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テーマ : けいおん!
ジャンル : アニメ・コミック

第一期終了時感想

この作品は、そもそもなんで「いい」のかわからなかった。
ただ見ていると、いくら見ていても飽きないし、梓じゃないけどなんとなくいいんだよなあ…という、不思議な作品だった。
「萌えと音楽をあわせたから」?「美少女+音楽が斬新だったから」?「京アニだから」?「ディティールが優れていたから」?「声優・アニメソングブームとリンクしたから」?「潜在的オタクであるミュージシャン層を開拓したから?」etc...
この作品を語る人間の多くがそういう話をしているだろうから、そんな話は他の人に語ってもらうことにする(笑)

でも、それらの話はなぜ、なにがこんなに心を掴むのか、ということとは何かが違う気がする。
少なくとも自分にとっては違った。これまで自分は作品の魅力ということについて、大抵のものについては説明ができる自信があったのだが、この作品についてはわからなかった。
自分は、いったいこの作品のなにがいいのか。

自分は00年ごろから隆盛してきたいわゆる「萌えアニメ」というものがぶっちゃけ嫌いだった(笑)
というか今も嫌いだ。執拗なセックスアピールと媚と内向的な下卑た笑いが生理的にダメだ。
そして萌えキャラクター偏重主義。どれもこれも、キャラ萌えに隷属させられた歪な世界観とキャラの魅力を強調するためだけの矮小なストーリーという共通性を持っていた。自分はこうしたものがどうしても好きにはなれなかったのだ。
そうしたアニメが中心になったこの 10年ほど、アニメに感動する、という体験を数えるほどしかしてこなかった。
もうこんなマンガとアニメしか生まれてこないんだろうなとも半ば諦観していた。
加えてその放送期間の短さは「ハマる」という体験を許さなかった。3ヶ月では同人誌を作る余裕すらない。この10年、アニパロ同人誌は停滞と後退の一途だったのもむべなるかな。
アニメが消耗品になって、ますます自分にとってアニメは感動とは程遠いものになっていた。

30年以上アニメを見てきて、時代を変えてしまう作品は、5-10年を挟んで現れると思う。
SFならば「ヤマト」「ガンダム」そしてややおいて「エヴァ」、キャラクターものなら「うる星やつら」「セーラームーン」という流れがあった。
しかしこの近年は上記したようなアニメの現状もあって細分化が進み、そんなアニメ界を巻き込むようなエポックメーキング的作品が出てくることはもうないんじゃないかと思っていた。
それでもこの16年、自分はこれだと思える作品、ハマれる作品を期待もせずしかし待っていた。

で、この作品を見ていて、「もしかしたら、この作品はそうなのか?」と思った。
でも確信が持てなかった。
いったように、「いい」ことはわかるのだが、「なにがいいのか」わからなかったのだ。でも自分がハマるというのは奇妙だ(笑)
でも、昨日13話を見終わってから考えて、この作品がなんだったのかをなんとなく、自分なりに消化できてきた。

この作品には、従来の多くの萌えアニメとは違う要素があった。
それは奇をてらわないことだ。萌えアニメにありがちなSFでも伝奇でもない。ファンタジーやオタクライフでもない。もちろん漫画としての設定の誇張はあるが、しかしベースはあくまで学園生活、サークル活動という誰でも知っている日常であり、それは00年代というよりは、どちらかというと80年代くらいまでは存在したスポ根ものの切り口に近い。

確かに、これまでも「日常系4コマ」といわれる作品はあった。
でも、その多くはやはりキャラクターを見せる為の偏った世界で、やはりどこにもない世界だった。
そうした「萌えキャラクター偏重主義」は言い方を変えるなら「オタク向けの言語」だ。
オタクに向けた「記号」で構成され、オタクはセンスを理解してニヤリとできるが、それはどこかハメをはずした「共通語ではないもの」で、一般人が見ると引いてしまう。
でも、この作品は一般向けの「共通言語」で書かれていたのだ。

多分、この作品は懐かしくも正道の王道だった。
奇をてらわぬ、誰もがあったと思える世界とキャラの協調、そしてそれが生む空気を見せる。
萌えキャラの為にある世界でもなく、萌えキャラのためにある物語でもない。萌えキャラをただ見せたいのでもない。両者は作品の両輪だった。
描かれていたことは、恥ずかしい言い方をするなら「青春グラフィティ」というやつだ(笑)
考えてみるとそんな言葉があった80年代に、確かにこんな作品を見たような気がした。
あの頃はこんなにポヤポヤとしてない、もっとビシッと気合の入ったものだったが。
しかし確かに、こんな世界に触れた気がする。

こんなことになかなか気がつかなかったのは、「萌えアニメ」からのアプローチでは、よもやそんな作品は生まれないという先入観と決め付けが自分にあったせいだ。
萌えアニメはどこまで行っても「一般向け」へ脱皮することはできず、「オタク村」の中で陰湿にウヒヒ、エヘヘ、ああアレね、やっぱりここはこうでしょウヘヘと語られ、エロ同人誌のネタにされるだけのものだと、自分は見限っていた。
もうそういう風潮に飽きてもいた。
この作品も、確かにそんな旧来の萌えマンガという脈絡から生まれたのに、オタク村に限らず誰でも楽しめる作品だったのだ。それは四コマが原作だったとかそんな理由もあったのかもしれないが。それはそれで語れば長くなるから割愛して。

この「萌えと共通言語の融合」というのは、自分の価値観からすると、これはやはり革新的だったと思う。
それはたまたまこの作品だけの偶然、奇跡だったのか。それとも「やればできる子」だったのか。そこはまだわからないが、本物ならこれはすごいことだし、その路線は多分、今後10年の萌えアニメの方向性を決める、ひとつ違う次元にいったと自分は思う。
でもそんなものじゃないとしても、確かにこれは、自分が長らく見ていない、そして久しく見たい作品だったのは間違いない。

妙な話だけれど、この作品を見て、キャラクターや世界を愛しい、楽しいと思う感覚は、「うる星やつら」の頃に感じていた感覚に似ている(笑)
なんかもう四半世紀も昔のことなので本当に忘れかけていたけれど、確かにあの頃子供の自分はこんな感じであの作品にハマっていた。空気が好きで、キャラが好きで、物語が好きで、なんの翳りもなく、なんの疑いもなく、ただ楽しい、愛しいと思っていた。
考えてみると、あれからずいぶん、ひねたものの見方をするようになっていた(笑)
こういう感覚は本当に久しぶりで、そのことに感動している自分がいる。

でもまあ、それに気づいたときはもう終わりだったんだけど(笑)
でも神というものがいるのなら、この出会いに感謝したい。そんな気分だ(笑)

これで気持ちの全てがすくえた気はまだしないんだけれども、まだどこか違うのか、本質じゃない気がするのだけれども、今はこのくらいしか書けない。


ここからは余談になりますが。

この作品は、公式なんかでも言われていることだけれども、キラキラしてた。
青春のキラキラを良く描き出してた。
こういう「優しい」「温かい」作品はなかなか生まれてこないと思う。
こんな作品がもっと増えればいいのにね。
歌と声の演技を頑張った声優さんたちも素晴らしかったです。ホント感謝。

あと、バンドってものへの興味がちょっと甦りました。
自分はアニソンも洋楽も苦手で、J-POPしか聴かない人なんだけど、自分が深く長くハマった人についてはそれなりにメンバーや音楽の背景についての雑学もありました。
ただ自分の中で「やる側」の視点というか、やる人の気持ちというのはやはり世界が違うというか、思いもよらないもので、自分にとって音楽は、やっぱり音楽に自分を同調するものであって、奏者に視点を向けるものではなかったわけです。
でもこの作品は、自分が耳にしてきたミュージシャンたちの人間像を、そしてその音を、改めて知ってみたいという気持ちにさせてくれました。
だから今は、昔自分がよく聴いたミュージシャンの歌を聴いています。感謝。

大学時代にマンガと音楽という表現手段を比べたときに、音楽っていいなと思った時期はあるのだけれど、それは淡いもので、しかも自分には音楽の方が敷居が高く思えたので、とても実現には踏み切れませんでした。自分が日記で時々好きな音楽を取り上げてるのも、音楽という表現への憧れが強くあるからで、音楽は一番優れた表現だと思ってるからです。
今にして思うと、やっぱり音楽もよかったかな、とも思います(笑)

そんな自分にしてみれば、この作品における「音楽」が「目的」ではなくて「手段」だったことはとてもよかった。
音楽は大変だ、音楽は難しい、音楽に真剣になれ、そんな肩肘を張った話ではなくて、友達が集まる手段であり、仲間が奏でる空気を表現する手段だったことは、12話で、5人が次々と音を重ねていく場面に集約されてました。
音楽が目的ではなかったことが、この作品を80年代のスポ根ものではないものにしたのだろうけれど、しかし手段だったからこそ、この作品が現代らしい自由で優しい空気になったのだろうと思います。

きっとこの作品も過去になっていくんだろうけども、自分は多分きっと、これからも何度も見返すでしょう。ホントいい作品でした。

(20090627初稿 mixiより改訂して転載)

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ジャンル : アニメ・コミック

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